17年4月9日 説教

 

  「生きている者の神」

 

マタイによる福音書22章23-33節

 

 

今日の聖書の箇所のテーマは、受難の後の「復活」と言う内容です。

 

随分前になりますが、私の知り合いの牧師がこんな話をされたことを思い出します。その牧師は、ある夫婦の男性の方の祈念式で夫人が、葬儀で歌われた讃美歌405番の「また逢う日まで、また逢う日まで」という讃美歌の歌詞が好きであることと、説教で語られた、「またいつか、愛する人に再会できます」という牧師の言葉にとても感動されと言うことです。

 

それに続けて、「先生、夫が亡くなったときは、私も天国に行ってすぐに会えるだろうと思っていたのに、長い年がたってしまいました。もし天国に行ったら、どうなるのでしょうか。天国での夫は昔のままで、私は年老いています。夫はこんな私に会って喜ぶでしょうか。」と尋ねられたそうです。

知人の牧師は、「いや、天国では年齢は関係ありません。それにイエス様は、死者の中から復活するときには、天使のようになるのだ、と仰っていますから、大丈夫ですよ」と応えたそうです。

するとその夫人は、「へー、天国では皆天使のようになるのですか。もう夫婦では無いのですか。じゃあ、会ってもしょうが無いですね」と言われたそうです。その後まもなく、その夫人も亡くなられたそうですが、今その夫婦は天国でどうしておられるのか、と笑いながらその牧師は仰っていました。

 

今日の聖書では、サドカイ派の人たちがイエスに尋ねた、との話の発端となっています。サドカイ派の人は、「復活」を否定した人達です。

 

私はこのサドカイ人の質問は「7人の兄弟が、次々と亡くなり、長兄の妻は弟達と次々と家を継ぐための結婚をする。すると復活の時には、その女性は誰の妻になるか」と言う問いです。だから復活は矛盾だという話です。

この話は非現実的でばかばかしいとは思いつつも、ちょうど夫に先立たれた夫人のように、復活と言うことを考えると、私達も似たり寄ったりかなと思えます。私達も、復活ってあるんだろうか、あるはずがないとか、死んだあとはどうなるんだろう? などとあれこれ考えます。テレビでも臨死体験とか言って死後の世界があるとかないとか取りざたします。

 

ところが、この記事に続くイエスの返答の言葉はとても衝撃的なものです。

イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」。

勿論この言葉は、直接的にはサドカイ人に対して語られた言葉ですがこのイエスの言葉は、私たちに対しても言われているのだとの思うのです。

 

それに続いて核心の言葉を示されます。それは、「死人の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。」『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」

そしてそれに続いて、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」と説明されているのです。

 

皆さんはこの言葉をどのように受け止められるでしょうか。私にはこの言葉の意味が、長い間分りませんでした。マルコによる福音書では、「あなた方は非常な思い違いをしている」と言う強い言葉で語られています。私はこれは一体どういう意味なのかという疑問から離れることはできませんでした。

 

非常な思い違いとは、イエスは何を言っておられるのだろう。何をどう思い違いをしているのだろうという疑問でした。西南学院大学神学部の学びの中で、その疑問をA先生にぶつけてみたり、わたしの恩師のT先生や、その他多くの解説書を通して学び、考えるうちに、私は打ち砕かれる体験をしました。

 

私は、この箇所を初めて読んだときに、この記述が現在形であることに長い間気付きませんでした。

 

イエスが引用された「わたしはアブラハムの神、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言う言葉は、出エジプト記3章で、神がモーセに向かって語られた言葉です。過去の人モーセに向かって、さらにその400年以上前の過去の人達である、アブラハム、イサク、ヤコブの名前を挙げ、その人たちの神で「ある」、と言われたのです。過去のことについて神は「彼らの神でした」とは言われないで、神で「ある」と現在形で述べられています。

 

「私は今もなおアブラハムの神である」と言っておられるのです。アブラハムたちが死んだことを聖書はしっかり記しています。ですから死んでないとかいうことではなく、死をきちんと見据えています。それでも生きている時も死んでからも、神様は手を離しておられないでアブラハムの手、イサクの手、ヤコブの手をしっかり握っているということを言っておられるのでしょう。

 

それは復活とは、死後の世界のことや死後どうなるかとか、あの世とこの世というようなことを言っているのではなく、私たちが生きていても死んでしまっても神様の手の中に置かれていて、神様はどんなときにもいつも私達に働いていて下さるということなのだと思います。

聖書がいう復活や、永遠の命とは、今の私達の生活のスタイルが死後もずっと続くいうことではなくて、神様がどんな時でも「わたしはあなたの神である」と私達一人一人に働きかけてくださっていて、そのような命を生きろとおっしゃっているのだと思います。そういう事実に対して、私達の考え付きもせず、とんでもない思い違いをしていると言われたのがその意味なのでしょう。

 

ヨハネによる福音書第5章記事が、今日のテーマをよく説明する言葉なので、紹介しましょう。復活とは私達が考えているイメージとは全く違うことをイエスは示しておられることに改めてきづかされます。

 

『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

 

イエスの言葉を聴いて、イエスを遣わされた神を信じる者は、永遠の命を得、死から命へと移っている。これこそが復活と言うことでしょう。

さらに、死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。今がその時である。その声を聞いた者は生きる。その復活は今起きていると記しているのです。

 

まさしく、神が生きておられると語り、イエスにも命を与えて下さったと語っているのです。神の中に命の源があるように、イエス・キリストの中にも復活の命があるのだ。と言っているのです。

 

イエスが引用された「わたしはアブラハムの神、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言う言葉の意味は、神は部族集団の神ではなく、またアブラハムの子孫だからではなく、イサクの子孫だからではなく、一人一人の生きている人間の神であって、全てのひとりひとりは神によって命を与えられ、支えられて生きているのだと言うことでしょう。

 

神様から見て、かけがえのない存在である私達一人一は、決して死によって消え去るのではない、いつも神様の命の中に置かれているということをイエスは教えて下さっています。

 

イエスが引用された「わたしはアブラハムの神、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言う言葉の意味は、神は一人一人の生きている人間に対する神で『ある』ということです。

 

ですから、「生きている者の神」とは、神がおられるところで私たちは生きているのだということでしょう。全ての一人一人は神によって命を与えられ、支えられて生きているのだと言うことでしょう。

 

死んだらどうなるのか、そんなことで思い煩うことはありません。今既に与えられている主の蘇りのいのちが、死を突き抜けて今の私を支える。そのことを信じるだけです。「神は死んだ者の神では無く、生きている者の神なのだ」。生きている者とは、それはわたし達のことです。

 

パウロは、ローマ人への手紙14章8節で「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、私達は主のものなのである。」

と述べて、生と死の支配者が神様であることを力強く述べています。

 

自分の生も死も神様の御手のなかにある、自分の中で神様が生きて働いておられる、そのことを受け止めて生きることが復活だ、と神様が私達に示そうとされておられます。「神様は生きて働いておられるのです」

 

ボンフェッファーという神学者は次のように語っています。

 

「神が何を約束され、また何を成就されるかを知るためには、繰り返し、繰り返し、本当に長い時間をかけ、しかもきわめて静かに、イエスの生涯・言葉・行為・苦難、そして死を思いつつ、その中に深く沈潜して行かなければならない」と言っています。

 

 

       17年3月26日 説教 

 

     「生き方在り方」

 

マタイによる福音書第22章15節-22節

 

おはようございます。

 

  新約聖書のイエスの言葉は、一言で人間の本質を鋭く貫いてとても強い力を及ぼす語りかけや、宣言とも言えるものがたくさん在ります。それらの多くは、マタイによる福音書では5章から7章の「山上の説教」という説教の中に集中的にまとめられています。その他にも、そのような言葉はたくさんありますが、今日の聖書のイエスの言葉もそんな鋭い言葉の一つだと思います。

 

 今日の聖書箇所は、イエスに敵対し、イエスを罠にかけて抹殺しようとした企ての中で起こった出来事です。それを企てたのは、ユダヤ教の中心的支配グループのファリサイ派と呼ばれる人々でした。

 

彼らは慇懃無礼な言葉でイエスに近づきます。そして、イエスを一言で打ち倒し、逃れられない罠に捕らえようと挑みます。その罠とは次の言葉です。

 

「ところでどうお思いでしょうかお教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と問うたのです。

この問いにまともに答えることは、危険きわまりないことになります。

 

イスラエルは、長い間様々な隣国に支配され続けられました。アッシリア、バビロニア、ローマとイスラエルは占領され税金を搾り取られたり、圧迫を受けたり捕虜となったりで苦しみをなめ続けました。

ローマ帝国は、各人に頭割りに同額を払わせる人頭税を、そしてローマの傀儡で被占領地域の支配者であるヘロデ王は国内税を、ユダヤ教の宮殿は神殿税を、さらに取税人と呼ばれる人達は通行税を取りました。さらにまたあるところでは関税までとりました。税金収奪の背後にはそれを強制的に実行可能にする権力者がいます。さらにその周囲には権力者のスパイとなって弱者を脅す卑怯者がいました。

 

もし、彼らの問いにイエスが「納めなくても良い」などと言えば反逆者として、ローマの占領軍に通報されます。それは死を意味します。

逆に「納めるべきだ」と答えれば、今度は、税に苦しむ人々から、イエスは裏切り者として追放され殺されるか、憎しみを買うに違いないのです。このように企んだパリサイ派の人とヘロデ派(ローマの委任統治を許されたの者達)の企みは醜悪の一言に尽きます。

 

そんなファリサイ派とヘロデ派の人たちの悪意に満ちた問いに対してイエスは、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われます。彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。彼らは、「皇帝のものです」と答えます。すると、イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われたのです。

それを聞いた彼らはその答えに驚いて立ち去ったと書かれています。

この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とはどういうことなのでしょう。

 

イエスはローマに支配されてそのルールに従って生きること、現実の世界の中で具体的にどのように生きるかという生き方を否定されているわけではありません。被占領社会のルールの中で生活の仕方をそれぞれに工夫して生きていくしかない。それが「皇帝のものは皇帝に」という言葉なのだと思います。

 

でもそれはそれとして、人はどうあるべきなのかという在り方は、別の事柄なのだと仰っているのだと思います。私たち一人一人は神様のものだ、そういう存在に立ち返りなさいというのが、「神のものは神に」ということばなのでしょう。

 

話は横道にそれますが、新聞の書評で面白い小説が紹介されていましたので、早速購入して読んでみました。「春に散る」という長編小説です。「春に散る」は、上下二巻からなる800頁を超える長編小説ですが、流れるよう読みやすい文章とストーリー展開で、一気に読んでしまわせる興味深い作品でした。

 

あら筋は、日本タイトル戦に敗れてアメリカに渡った元プロボクサーの主人公Hが、アメリカでトレーナーから「君はチャンピオンの中のチャンピオンにはなれない」と言われ、アメリカの試合でも完敗をしてボクシング界を去ります。「世界で一番自由になるために世界チャンピオンを目指した」Hには、その高みに到達できなかった自分を受け入れることが出来なかったのです。

 

ボクシング界を離れた彼はアメリカでのホテル経営に成功し財をなしますが、心臓を患い、40年ぶりに日本に帰ってきます。そして挫折感のためにボクシングから逃避していたのに、なりゆきで昔所属していたジムに出入りするようになり、かつて同じジムで世界チャンピオンを共に目指した3人の元ボクサーを探す旅にでます。自分を含めて四人がいずれも、「輝かしい時」を過ぎて、それぞれ一人ぼっちで、残る人生をどう生きるか思い惑っていることを知ります。

Hは、境遇の全く違ってしまった家族を持たない四人が共に暮らすことを考えつき、提案して四人で40年前に経験した、昔のような共同生活を始めます。

そこで、四人はある出来事から偶然、若くしてボクシングに絶望した若者に出会います。四人はその若者の素質を認め、世界チャンピオンにと育てようと考えて、その若者を共同生活に加えて鍛えます。

 

「世界で最も自由な存在」になることだけを考えてチャンピオンを目指したHは、その若者から「自由の向こうには何があるんでしょう」と質問されます。

その問いに対して、この小説は、「そんなことは考えもしなかったという驚きがあった。この問いが出来たときが、若者が四人を超えた瞬間だった。同時にHは呪縛から解かれたのだ」と記します。

 

四人の天才的な元ボクサーに育てられた若者は、世界チャンピオンとなりますが、ボクシングをやめてHと同じように、アメリカのホテルで働きたいということをHに告げます。

「春に散る」のタイトル通り、その直後にHは心臓発作で倒れ、帰国からちょうど一年後のさくらの季節に亡くなります。

 

「春に散る」の発刊記念会で、作者が書きたかったのは、『生き方』ではなく、『在り方』だったと語っています。作者自身が、その小説を書いた後に気がついたこととして、「一瞬一瞬をどう在るか。自分の「在り方」を意識することが、「生き方」より大事なのではないか」と書いています。

作者がここで「生き方」と言っているのは、このプロボクサーが目標を目指して生きた生き方、この世界でその生き方が貫けなかったら、自分の人生には生きている意味がないと思っていた生き方を指しているのだろうと思います。この世でどのように生きるかという具体的な how toに属する課題のことです。

そして彼が「在り方」と言っているのは、何ができるとか、何が出来たとか、何をするとか、何をしたかということではなく、ここに存在している自分をそのまま受け入れて、その自分が「一瞬一瞬どう在るか」ということに心を注いでいくということを言っているのだろうと思いました。

 

そして、作者が、長編小説を通して語りたかった、「生き方より在り方」だという内容が、今日の聖書箇所が鋭く示している事柄なのではないかと私は受け取ったのです。もう一度聖書に帰ってみましょう。

 

イエスは人が社会の中でそのルールに従って生きていかざるをえないことを、「皇帝のものは皇帝に」という言葉で表されたのだと思います。

 

でもそれはそれとして、人の在り方というのは、別の事柄なのだとおっしゃっているのでしょう。私たちは一人一人が神様のものだ、そういう存在に立ち帰りなさいと言うのが、「神のものは神に」という言葉でしょう。

 

ファリサイ派の人達に基本的に欠けているものが在りました。それは、「神の存在」を彼らが自分の事柄として考えもしなかったことです。「神のものは神に返しなさい」とイエスから語りかけられたときに、初めて彼らは「神のもの」である自分の存在に立ち返らされ、自分のこととして考えもしなかった「神のものは神に返しなさい」というその言葉にうろたえてしまったのです。

 

 人はどのように生きるかといつも迫られています。それは生きる上で欠かせないことです。でもそれはそれとして、私達は在り方に目覚める必要があります。

 

人の大切な「在り方」とは、自分の自由が第一に大切にされる世界ではなく、「自由の向こう側に在るもの」こそが大事なものです。それは、「自分が努力することによって獲得し得るようなものでは無い。それは自分の努力によっては、決して自分のものとはならないもの」です。むしろそこから手を離し、私が神様のもの、私は神から与えられた存在であると受け止めることです。

 

イエスが言われたこと、「神様のものは神様に」という在り方とは、一つの主義主張を持つと言うことでは無いということでしょう。How toに関わるすべてのこと、「それは神様じゃ無いよ、それは絶対的なものじゃ無いよ」というふうに言える土台を持っていると言うことです。全てのことを相対化できる、そういう土台を持っていると言うこと、それが神様のものは神様に返すという人の在り方だと思います。

自分の命や人生が神様から与えられたものだとわかると、自分が自分の命の価値や人生の価値を証明したり確認したりしなくていいのですから、「自分の言ったことは、絶対的じゃ無い」と自分も否定することが出来る。自分の持っている絶対性というものを否定することが出来るようになります。

 

目の前にいる人の命も人生も神様から与えられたものだということが本当にわかると、そこに共に生きていく場が与えられます。それを知ることで私達は、いつも新しくなることが出来ます。それが、「自由の向こう側に在るもの」なのでしょう。それが、「神のものは神に返しなさい」ということなのだと思います。それが私達の命と人生の「在り方」の土台に在るものでは無いでしょうか。

 

この土台に立つとき、わたし達に真実に迫る目が与えられるのだと思います。権力によって、金の力によって、自己中心主義によって、弱者を退け、苦しみの中に在るものを差別し、排斥する世の動きや考え方に敏感に反対する視点と力が与えられるのだと思います。

 

「神のものは神に返しなさい」と言うイエスの呼びかけを常に胸に刻みつつ、人の在り方と生き方をいつも考えつつ歩む日々でありたいと祈ります。 

17年2月12日 説教 

 

「必要とされる」

 

マタイによる福音書第21章1節-11節

 

 

 おはようございます。

 

 イエスは二人の弟子を使いに出します。それは、「向こうの村に行くとロバが繋いであり、一緒に子ロバがいるのが見つかる。それをほどいて私の所に引いてきなさい。」と言われます。そして、「もし誰かが何か言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれる」と言われます。

 

旧約聖書のゼカリヤ書9章9-10節に次のような言葉があります。

『娘シオン(エルサレムの住民)よ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。    

わたしはエフライム(北の隣国)から戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

 

イエスは戦いのための軍馬ではなく、平和の象徴である子ロバを求められたのです。平和の君である主イエスが乗られるのに最もふさわしいのは子ロバと考えられたからです。イエスは立派大型車オープンカーではなく、貧弱な小さなポンコツ車を求められたのです。

 

その次に聖書はとても大切なことを告げています。「主がお入り用なのです」という言葉です。「主が必要とされている」という意味です。

イエスには子ロバが必要不可欠なのだと言われるのです。

 

この子ロバの物語は、私たちが平素何気なく考えたり、口に出す言葉とは、正反対なことを言っています。

私たちはふつう困った時、苦しい時、悲しい時に、救い主、助け主である神様を必要とし祈り求めます。日本では正月元旦の神社にはおびただしい人々が、一年の幸運と多幸を祈願してお参りをします。

教会のすぐ近くの猿田彦神社には縁起物を求めて、交通渋滞を起こすほどの人々が幸運の印を求めて並びます。そこでは人々が自分の幸運のために助け主・神様を必要として祈願しているのす。

しかし、ここでは主イエスが子ロバを必要としておられる。必要としているのは主イエスなのです。イエスが子ロバを必要とされています。

 

しかも、そのロバとは戦いのための軍馬ではなく、勇壮でも、凜々しい美しさがあるわけでもない、おとなしく平和そのもののような子ロバです。それが、エルサレムに入城されるのに「必要だ」とイエス自身が言われています。

 

救い主、王が来られたとして興奮してイエスのエルサレム入城を歓待する人々。興奮して自分の服を脱いで道に敷き、木の枝を切ってきて道に敷く人々。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と興奮して叫ぶ人々。ホサナとは、ギリシャ語で、「今救ってください」という意味です。

 

これだけ興奮している大勢の人々に対して、とぼとぼと小さな子ロバに乗ってエルサレムに入られるイエスの姿を想像してみてください。思わず吹き出してしまうほど対照的で滑稽な光景が作り出されていると思いませんか。これが、イエスが必要とされた姿なのです。人々の興奮とはまるで異なったことを考え、人々に示そうとされたイエスの姿です。

 

キリスト教信仰の事柄は、私達が望む力や幸運を自分に与えるものでも、他を蹴散らす力強さを与えるものでもありません。イエスが子ロバに象徴されるような人間を必要とされている。「主が必要とされている」ということが第一にあるのです。

 

今日の聖書の最初の言葉である、マタイによる福音書21章の箇所は、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に共通して書かれている部分です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は共観福音書と呼ばれ、マルコを手本として書かれているのですが、ヨハネによる福音書まで共通して書かれている記事は実はとても少ないのです。

 

ですから、4つの福音書に共通して記されている、「主が必要とされている」という記事は、福音書記者にとって、外すことのできない共通の大事な内容であったということもできると思います。

 

聖書は、私が神を必要とし、イエスを必要としているから信仰を持つというのではなく、イエスが私を必要とされている、ということが根源であり、全ての出発点であるとして伝えているのです。

 

私に何が必要かを第一に求めることではなく、私たちの存在そのものを、「主が必要なのだ」と言っていてくださっている。それが重要なのだと聖書は言っているのです。自分は何もできないと自己卑下する必要はないし、逆に、これだけしているのだと威張ることもない。

「主が必要なのです」という神さまの招きをその通りに受け入れることだけが求められています。

 

主が「必要です」と語られていることは、私たち人間が幼かろうが、若かろうが、高齢者であろうが、健康であろうが、病弱であろうが、罪多き存在であろうが、そんなことに関わらず、主イエスに「必要です」と求められているということです。とくに弱く、孤独で、苦悩の中にある人こそイエスに「必要です」と求められています。

 

主イエスが、聖書を通して私達人間に語られる呼びかけは、人間の思いを超えた全ての人に与えられる無条件の神の赦しと、いのちの祝福・幸いです。

 

聖書は、ものを生産したり、生産の役に立つということ人間の最も大切にすべき事柄とは考えていません。そのような観点からの人間の価値観とは全く反対に、イエスが「あなたが必要です」という価値観から人間を見ています。

 

第二次大戦中、ドイツのナチスその根幹思想となったのは、ものの生産に役立つ人間が優れており、役に立たない人間を減らすという優性学の思想です。

この思想は、現在日本でも生きており、生産性を重視して人権を軽視する社会を作りつつあると考えねばなりません。

 

ナチスの支配するこの根幹思想に対して、ボーデルシュヴィングという牧師が「交流能力には二つの側面がある。重要なのは、障がい者でない自分の方にも、相手に対して交流能力があるかという側面です。この点で、自分はこれまで交流能力の無い人間に出会ったことがありません。」と語りました。

 

神様が私たちに求めておられる生き方に立ち返ること。イエスが「あなたが必要です」という言葉に立ち返る生き方。神と聖書のイエスの招きに答えて生きる生き方。それこそが今日の聖書が伝える人間の基本の事柄です。

 

教会は、子供たちを大切にし、青年を大切にし、お母さんを大切にし、お父さんを大切にします。そして、教会は全く同じように高齢者を大切にしますし、病にある人を大切にします。悩みの中にある人を大切にします。一人で生活されている人を大切にします。

それは、神様とイエスさまが一人一人を「必要とされる存在」として大切に求められているからです。

 

私たちも、神様の希望に向かって、イエス・キリストに向かって歩きましょう。「主が必要とされているのです」という呼びかけにいつでも答えながら歩きましょう。

 

私の尊敬する人の愛唱讃美歌494番を歌って今日の説教を閉じましょう。

 

 わが行くみち いついかに

 なるべきかは つゆしらねど

 主はみこころ なしたまわん

 

 そなえたもう 主のみちを

ふみてゆかん ひとすじに

 

 

 私が生きていく道はこれから先、いつどのようになるのか全く分からないけれど、主は私の上にみ心をなしてくださる。主が私を必要として備えていて下さる。その道をひとすじに歩いて行きましょう。

 

 

 

2017年1月22日 説教

 

「偉い人」とは

 

マタイによる福音書第20章20-28節

 

 

 皆さんは現在の小、中学生がどんな夢を持っているかご存じでしょうか。

 男の子の夢の一位は何だと思われますか。それは「サッカー選手」です。第二位は「科学者」。第三位は二つあり、警察官と医者です。以下は、5位が、電車の運転手とゲームクリエーターです。7位は同率で、マンガ家、パイロット、テレビ・アニメのキャラクター、大工さん、建築家、宇宙飛行士です。

 

では女の子の夢の第一位は何でしょう。それはパテシエです。第二位はお医者さん。第三位は幼稚園、保育園の先生です。第四位は、デザイナー、第五位はスポーツ選手、第六位はアイドル歌手と建築家です。建築家は少し意外ですね。第八位はケーキ屋さん、女優、小学校の先生です。

 

では今度は、逆に親が子供になって欲しい職業のランキングはどうなっているでしょうか。第一位は、「子供がなりたいと思っている、憧れの仕事に就いてほしい」と言うことです。昔から変わらぬ親心の本音だと思われます。

第二位は薬剤師さん。第三位は医者です。以下は、公務員、学校の先生、看護師など比較的安定して将来が約束される職業を望む親が多い結果でした。

 

子供達がそういう職業にあこがれるのは、そういう職業の人を偉いと思うからでしょう。皆さんにとって偉いとはどういうイメージでしょうか?

人の上に立つ人、リーダーとして優れている人、人の役に立つ人などいろんなイメージがあります。

 

 今日の聖書箇所は、ヤコブとその兄弟のヨハネの母が、二人の息子達と一緒にイエスの所に来て願います。イエスは「何が望みか」と問います。すると彼女は、「王座におつきになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と頼むのです。

 

 この会話では、母親の願いと、二人の息子達兄弟の願いが重なって一つになっています。そしてそれは、イエスの弟子集団の中で高い地位に就きたいという願いが、正直にイエスに向けて差し出された願いでした。

 

するとイエスは答えて「あなた方は、自分が何を願っているのか分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことが出来るか」と逆に問い返されます。二人は、「出来ます」と答えます。

 

「自分が何を願っているのか分かっていない」。とは、指導的位置に座ることが人間として偉いことでは無いとイエスが言われたのです。

 

「あなた方は私が飲もうとしている杯を飲むことが出来るか」と問われます。この二人の弟子達には、また母にも、想像も出来ない、人間としての悲しみと苦しみの杯がイエスを待っていることを語られたのですが、それはこの三人には知るべくもありませんでした。

 

ところが、それを聞いた他の10人の弟子達が腹を立てます。イエスは弟子達すべてを呼び寄せて、「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」といわれたのです。

 

そしてイエス自身も、「自分は人に仕えられるためではなく、人に仕えるために来たのだ」、「偉い人とは人に仕える人だ」と宣言されたのです。私達が普通に考える「偉い人」とはまるで違うイメージを示されました。

 

私は40年前に鳥取大学に就職しました。大学のすぐ近くには、日本基督教団の湖山教会がありました。鳥取滞在中はその湖山教会に通いました。そこで私は生涯忘れることの出来ない、3人の「偉い人」に出会いました。

それは3人の婦人でした。教会設立の種をまき、水を与え成長させた方々でした。既に3人ともに神様の元に召されましたが、今日はその中でも特に私達夫婦にキリスト者としての生き方を教えて頂いた上山さんを紹介します。

 

その婦人は一人で大きな家に住まわれ、そこに学生を住まわせ、また多くの学生のお世話をされました。何人かの若い人の学資を支援するという「足長おじさん・おばさん」のような働きもされました。私達も後に、その家に一緒に住まわせていただきました。

 

上山さんは、人の輪をゆったりと作られる、静かな行動力と優しさにあふれた柔和な婦人でした。口癖のように「みんなもっと教会のために時間を使わんといけん」とおっしゃっていた彼女の、教会の成長に仕えるそのあり方は凄まじいものがありました。毎週自宅を開放して婦人会のお仕事会をして、毎回皆に昼食を提供してくださって、楽しく魅力ある教会へと人々を集めました。

 

私達は大きな家に一緒に住まわせて頂くとともに、家主である上山さんの許しを得て、自由にその家を集会所として使用することが出来ました。それが鳥取大学学生YMCAの活性化の原動力となりました。

 

上山さんは、鳥取で、婦人の友の「友の会」を始められ、その中心メンバーとして体を動かしてよく働かれ、また学生に食事を提供してくださり、そうでないときはいつも一人静かに聖書や、婦人の友を黙々と読んでおられました。

 

上山さんの口癖は「私はアホですケー、何にも分かりゃしませんケー」と謙遜されていました。そんな雰囲気の中で多くの人や若者を支えられました。

文字通り、若者に仕え、人に仕え、神様と教会に仕える生き方でした。いつも笑って人を受け入れ、人々に仕える「偉い人」でした。この人を通して、多くの人が育ち、教会が育てられ、そして私達夫婦も育てられました。

 

私の身近なもう一人の「偉い人」を紹介したいと思います。

私の連れ合いの実の姉は、もう亡くなりましたが、四十代後半に若年性アルツハイマーを発症しました。30年前です。次第に進行する病を気遣って、友人達が彼女を支えるために20年前「第二宅老所よりあい」を設立しました。

その「第二宅老所よりあい」の所長さんが、村瀬孝生さんです。村瀬さんは、西日本新聞にその「第二宅老所よりあい」の活動を連載されました。そして10年前に出版されたのが「ぼけてもいいよ」です。その他に、「おしっこの放物線」や「看取りケアの作法」など、感動的な本を出版されています。

 

村瀬さんは、ぼけ老人であろうと、その行動には必ず理由がある。だからその行動を決して邪魔してはならない。それが徹底しているのです。

家に帰りたいという認知症の人と共に、外に出て歩きます。でも行き先は分かりません。でも、その人の思いのままに共に歩きます。何時間でもその方の納得するまで歩きます。やがてその方は疲れて宅老所に帰ることを納得します。

 

認知症は、決してその人の思いを否定してはならないと言うことですが、それが徹底しています。でもそうしているうちに、落ち着いて改善してくるのです。村瀬さんは、徹底して認知症の老人に仕える中でその症状を受け入れて元気つけているのです。私の義理の姉は、発症後3年の余命と言われていましたが、その後28年も生きることができました。

 

徹底的に患者に「仕える者」として接する、村瀬さんの「宅老所よりあい」のあり方は、真に「偉い人」と言えるのではないかと思っています。

 

村瀬さんは「末期の人の身体が発する無言の訴えに耳を澄ませば、必要な支援が見えてくる。認知症の人の看取りは悲惨ではない」と訴えておられます。

 

「偉い人になりたいなら、人に仕える人になりなさい」とイエスはおっしゃいます。偉い人とは、人に仕えることによって、本当に豊かな人間関係を生み出し、人間関係の拡がりをもたらす人なのだと思います。

 

聖書に戻って、ヤコブとヨハネの母はその後どのような生き方をしたのでしょう。聖書にはそれについての記事はありませんが、マタイによる福音書27章55-56節にこの母が登場するのです。その箇所を読んでみます。

「またそこでは、大勢の婦人達が遠くから見守っていた。この婦人達は、ガリラヤからイエスに従って世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」

 

このゼベダイの子らの母は、イエスから「あなた方は、自分何を語っているか、分かっていない」として、イエスから、「私の飲もうとしている杯を飲むことが出来るのか」という厳しい問いかけを受けた人物です。

 

この母は、自分が息子達のためだと考えて発言したとはいえ、本当に人間として大切な事柄が見えていなかったことに深く反省し、イエスの言葉によって人間を見る視点が変えられたのではないでしょうか。

 

イエスの十字架刑の前で、その身分的栄達を願った、二人の息子達はちりぢりに逃げ去ったしまったのに、遠くからイエスの最後の姿をじっと見つめ続けていたのです。今や、危険な状況の中で命をかけても、イエスの言葉を心に刻み、それを自分の生き方に変えた姿がそこにありました。

 

先ほどのマタイの58頁の55節には、ガリラヤからイエスに従って「世話をした」とありますが、この世話をすると言う言葉は、「仕える」という意味でもあるのです。

 

私達も、人間の偉さは、他者に仕える中から生み出され、成長するものであることを心に刻んで生きていきたいと祈ります。

    2017年1月1日 説教

    

    「お金と信仰」

 

 

 マタイによる福音書第19章16-30節

 

 

 

 この何年か、特に経済的な安定性が優先され、そのほかの問題は陰に隠れて、人権や平和という、人類が長年の努力によって獲得した価値観が崩れ去るかのような風潮が世界を覆っています。

 

 世の中全体が、経済優先だけで動いていても、誰もがそれをおかしいと思いつつ、流れを変えようとする動きに加わろうとしません。 お金さえ安定してに入れば、ほかのことは日本人が目をつむっているように思われます。

 

  聖書の記事に従って聴いていきたいと思います。

 

 まず、話の発端は、金持ちの青年がイエスを目がけて接近し、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことすればいいのでしょう」と質問するのです。

 

 イエスは戸惑われたかもしれません。この青年は、折に触れてイエスの言動を見聞きして知り、イエスこそ自分の心の底にくすぶる問題を解決してくれる人だと考えたのでしょう。その青年の質問は「永遠の命を得る」にはどうすればいいかという内容でした。「人生の中で本当に確かな拠り所をどうやれば手に入れることができるのですか」と聴いたのです。

 

 今日この礼拝に集われた皆さんも、生きていく上で本当に大切なものは何だろうという問いを、もっています。教会はそのようなことを聴く場所でもあるからです。

 

 この金持ちの青年には、多くの財産があるにもかかわらず、様々な悩みがあったのでしょう。健康や人間関係や仕事上の不安であったかもしれませんし、あるいはもっと抽象的に生きる意味や目的の問題であったかもしれません。彼はそれを解決するために、様々な宗教的な修業をしてみたのかもしれません。

 その悩みの根源は、あるいは夏目漱石の「こころ」の主題のように財産を持っているが故の、相続争いや、権利争いだったのかもしれません。

 

 理由は解りませんが、この青年はイエスの言動の中に解決があると感じ取ってイエスに尋ねたのです。「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

 

 私たちも悩み事を抱えた時、善い人を求めて右往左往します。誰かの所に行けば何か道が拓けると思います。この青年もイエスをそういうアドバイスができる善い人と考えたのでしょう。 でもイエスは、神様に目を向けさせます。

 

 神様みを中心に据えなさいという注意を、金持ちの青年に与えた後、「もし命を得たいと思うなら、掟(戒め)を守りなさい。」とイエスは言われます。

 

 戒め(掟)とはモーセの十戒のことです。イエスは十戒のうちの、「人に関する」6つの戒めを答えられたのです。

 

 青年は「イエス様、あなたの言われることは皆守っているのに、自分には永遠の命に入れるという確信を持つことができない。一体何がかけているのでしょうか。」と尋ねたのです。

 

 ここからが、イエスと青年の真剣勝負の場です。青年は掟を守れば救われるとの、ユダヤ教の教えに従って、十戒や、多種多様な律法の定めを守ろうとして来たのに、本当の充実感がない。このイエスならその命の充足感に出会える場所を、自分に教え示してくれるに違いないとイエスに迫ったのです。

 

 これに対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それから私に従いなさい。」と答えられました。

 

それでも私たちはお金や財産にしがみついてしまいます。お金や財産が私の命の価値や意味を決めるように思ってしまいます。

 

イエスは私たちがしがみついて、それなしには生きられないように思っているものから手を離してみなさい、そして、それを周りで苦しんでいる人に、その人が必要とするものを与えなさい、と勧めます。

実はそれは金持ちの青年が全部守っていますと言った、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」という掟の中身のはずです。完全になりたいならその掟を本気で実行してごらんと言うのがこのイエスの言葉になります。でも実行するということはとても難しいことです。

 

 マタイによる福音書6章24節の山上の説教の中で、「神と富」という短い説教があります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」

 

 ここでは、富や金は神に匹敵する力を持っていることが指摘されています。現実の金の力は、神様の言葉に対抗するくらい強い力があるのです。だから、私たちはどうしてもお金の力にまけてお金から自由になれません。

 

今日の聖書箇所でも、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と書かれています。

 

イエスは、本当の命にとってなくてならぬものは何かをこの青年に語りかけたのですが、現実の富や金が、イエスの生き方、言葉や行動に深く出会うことを妨げてしまいました。イエスはこの青年に、も少し語りかけたかったのに違いありませんでしたが、この青年はイエスの前から去ってしまったのです。

 

 イエスは、この青年との出会いを通して、「金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られました。

 

 この言葉を聞いた弟子たちは、「非常に驚いた」と強い衝撃の言葉を吐いています。そして、「それでは誰が救われるのだろうか」と言いいます。そういう思いは私たち自身、私自身の中にもあります。

 

 そんな弟子たちを、イエスは「見つめて」、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」といわれています。

人間にはできないということ、すなわち財産やお金などを私たち人間が手放せないことをイエスはわかっておられるわけです。ということは、この聖書の箇所は「できないからダメ」とか、「できないとダメ」とか言ってるわけではないのだと考えられます。

でも青年は「できないから」と悲しみながら去っていきました。

 

去って行ってはいけなかったのだと思います。去らないで、イエスの言葉に引っかかっていることが大事なのだと思います。

 

 真理は人間の持ち物にはなりません。それは神様のものです。それと全く同じことですが、財産や金など人間の持ち物は、人間を本当に支えてくれるものとはなりません。

 

 本当になくてならないものはただ一つ。熱心に語り続けてくださるイエスの言葉に、引っかかり躓きつつ、イエスの生き方に導かれつつ歩むことです。

 

アッシジのフランチェスコの祈りと呼ばれている有名な祈りがあります。新しい年をこの祈りに導かれて歩み始めましょう。

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますよう

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように、

助け、導いてください。

 

神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。

 

自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。