2016年12月18日 西福岡教会説教要約

 

説教「赦します」

 

マタイによる福音書18章21―35節

 

 

 

 

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 

 

今日の箇所は、「仲間を赦さない家来のたとえ」と「小見出し」がつけられ、他の福音書には無いマタイによる福音書のみにある5つの譬え話の一つです。

 

譬え話は奇妙な内容を含んでいますが、私たちが奇妙だと思えば思うほど、イエス様が私たちに語られようとする内容が奥深く真実に迫っているものだといえます。

まず、ペトロの「何回まで許せば良いか」というイエスに対する問いかけから始まります。

私たちの経験からしても、私たちの赦しには条件や制限がはっきりとついています。赦せる限度、赦せない限界がはっきりとあります。

 

ペトロは、何故7回までと問うたのでしょうか。ペトロは当時の赦しに関わる常識であった、二回や三回を遙かに超えて、ユダヤ世界で完全数と考えられていた7回と言うことで、イエス様から高く評価され褒められると思って、七回と口に出してのではないでしょうか。もちろん単なるはったりでは無く、ペトロさんの、精一杯の自らをかけたイエスへの問いかけでもあったでしょう。

 

しかし、その次にイエスが語られたのは、ペトロさんや私たちの理解を遙かに超えた内容で、22節「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」という言葉です。これは、490回は赦しなさい、ということでは無く、もちろんそんなことは不可能ですが、何回赦したからもういいということではないよ、赦すことに限度はないんだよという意味です。

 

赦すとはそういうことだということを、具体的に私たちに分からせるために、イエスが話されたたとえ話が七の七十倍の具体的な赦しの内容なのです。

 

一万タラントンの借金をしている家来に、王様はこの家来に自分の家族も持ち物も全部売って返済するように命じた時、この家来はひれ伏して『どうか待って下さい。』としきりに願い、それを王様は憐れに思って、彼を赦し、なんとその借金を帳消しにしてやった。という話です。

 

この話の驚きは、その金額の大きさです。一万タラントンとは、現在の金額で言えば、六千億円という膨大な金額です。当時のユダヤ、サマリア、イドゥマヤの税収が600タラントンであったそうなので、その家来が家族や持ち物を全部売り払ったとしても、とても返せる金額ではありません。どうしてそんな借金が出来たのかも不可思議ですが、絶対に返せない金額の家来の借金を帳消しにされたというのです。

 

この借金の帳消しの話は、神様の赦しが、神様の罪の赦しが無限であるということをしめしています。そしてその神様の赦しというものは、その回数においても、内容においても無限であることを私たちに知らせようとしています。

神様の私たちに対する罪の赦しとは、そういうものであることを明らかに示してくれているのがイエスの語られる、譬えなのです。とことん「赦します」というのが神様からの私達へのメッセージです。

 

ところがこの譬えはまだ続きます。借金を帳消しにしてもらった家来が、百デナリオンを貸した仲間に出会います。百デナリオンとは、家来が王様にした借金の50万分の一の額で、現在の金額で百万円程度です。家来は仲間の借金の返済を迫り、それが出来なかったとして、ついには牢屋に入れてしまいます。

 

一体こんなことが現実にあることなのでしょうか。この家来はこんな恩知らずな行為をよくするもんだな、と思ってしまいます。でも、よく考えてみますと、現実には私たちは案外そんなことばかりしてるのではないか、それがイエス様の私たちへの問いです。

 

あなたは莫大な罪を許されているのに、そのことを忘れて友達を赦そうとしていないのでは無いか。赦されたにも拘わらず、相変わらず、私たちは許し合わないという、私たちの現実に向かってイエス様が語りかけておられるのです。

 

「わたしがお前をあわれんでやったように、お前も憐れんでやるべきではなかったか」と。あなたもそのようにしなさいとよびかけられているのが私達です。 

実際にできるかどうかはわからないけれど、そう呼び掛けられています。

 

ハンセン病にかかったために、家族から別れさせられ、社会から隔離されて施設で尽きることの無い怒りや無念の思いを懐いて一生を過ごさねばならなかった方々がおられます。

そのお一人で、すでに亡くなられていますが、国立療養所大島青松園という施設におられた塔和子さんというクリスチャンになられた詩人がおられます。

私たちの知り得ないたくさんの苦悩を詠んだ詩が多いのですが、慰めに満たされた詩も詠まれています。

「いのちの詩」という詩選集の中の、「エバの裔」の章の「ぬれているとき」という題の詩です。

 

「ぬれているとき」

 

ほんとうは

何度も終わりを見たのです

ぽっかり口をあいている

かわいた穴を見たのです

それでも

からっぽになったとき

もう空っぽになりようがなく

また

じわじわとまわりからぬれてゆき

 

くみ上げなければならない程になったのです

私の知恵でもなく

計らいでもなく

やさしい何者かの愛撫でした

あなたの見ている私はほかでもない

いつも満ちているとき

情感にあふれている壺を抱いて

みずみずしく

ぬれている

私なのです

 

苦しみや憎しみや怒りにも拘わらず、立て直され満たされていると感じた塔さんの詩です。

人間の座標軸は、神様との関係という縦軸と、隣人との関係という横軸から出来ています。ですから、主イエスは「神への愛」と「隣人への愛」を第一の掟とされました。「罪」とはこの縦軸と横軸を砕いてしまう力であり、「ゆるし」はそれを立て直す力です。

私たちが完全に赦されていることを知ったならば、そのことが、赦し合うことが困難な現実へと私たちを立ち戻らせ、そして許しあうことを可能にする力を与えてくれると思うのです。

 

今週の土曜日から、クリスマスに入ります。クリスマスには特別の意味があります。それは、イエス様がこの世に来られてこの世は根本的に変わったと言うことです。それは、イエス・キリストが、私たち人間がどのような者であろうとも、どのような罪にあふれた存在であろうとも、神の赦しがすべての者に与えられる。それをしっかりと告げ知らせて下さったからです。

 

私たちが全て赦されていることを知ることの大切さ、そして赦すことの大切さ、をイエス様が示してくださり私たちの中で働いて、真に私たちを立て直し新しい人間関係へと導いて、私達を生かして下さる。それがクリスマスの喜びの意味です。

 

 

私たちのこれまでの生き方、あり方にも拘わらず、私たちには神から完全な赦しが与えられた。その赦しを受けて、私たちはこれまで、どんな生き方どんなあり方であったにしても、「あなたもそのようにしなさい」ということばに励まされてそのように出来る力を与えて下さいと祈りつつイエス・キリストに向かって歩みたいと願います。

2016年12月18日 西福岡教会説教要約

 

説教「赦します」

 

マタイによる福音書18章21―35節

 

 

 

 

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

 

 

今日の箇所は、「仲間を赦さない家来のたとえ」と「小見出し」がつけられ、他の福音書には無いマタイによる福音書のみにある5つの譬え話の一つです。

 

譬え話は奇妙な内容を含んでいますが、私たちが奇妙だと思えば思うほど、イエス様が私たちに語られようとする内容が奥深く真実に迫っているものだといえます。

まず、ペトロの「何回まで許せば良いか」というイエスに対する問いかけから始まります。

私たちの経験からしても、私たちの赦しには条件や制限がはっきりとついています。赦せる限度、赦せない限界がはっきりとあります。

 

ペトロは、何故7回までと問うたのでしょうか。ペトロは当時の赦しに関わる常識であった、二回や三回を遙かに超えて、ユダヤ世界で完全数と考えられていた7回と言うことで、イエス様から高く評価され褒められると思って、七回と口に出してのではないでしょうか。もちろん単なるはったりでは無く、ペトロさんの、精一杯の自らをかけたイエスへの問いかけでもあったでしょう。

 

しかし、その次にイエスが語られたのは、ペトロさんや私たちの理解を遙かに超えた内容で、22節「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」という言葉です。これは、490回は赦しなさい、ということでは無く、もちろんそんなことは不可能ですが、何回赦したからもういいということではないよ、赦すことに限度はないんだよという意味です。

 

赦すとはそういうことだということを、具体的に私たちに分からせるために、イエスが話されたたとえ話が七の七十倍の具体的な赦しの内容なのです。

 

一万タラントンの借金をしている家来に、王様はこの家来に自分の家族も持ち物も全部売って返済するように命じた時、この家来はひれ伏して『どうか待って下さい。』としきりに願い、それを王様は憐れに思って、彼を赦し、なんとその借金を帳消しにしてやった。という話です。

 

この話の驚きは、その金額の大きさです。一万タラントンとは、現在の金額で言えば、六千億円という膨大な金額です。当時のユダヤ、サマリア、イドゥマヤの税収が600タラントンであったそうなので、その家来が家族や持ち物を全部売り払ったとしても、とても返せる金額ではありません。どうしてそんな借金が出来たのかも不可思議ですが、絶対に返せない金額の家来の借金を帳消しにされたというのです。

 

この借金の帳消しの話は、神様の赦しが、神様の罪の赦しが無限であるということをしめしています。そしてその神様の赦しというものは、その回数においても、内容においても無限であることを私たちに知らせようとしています。

神様の私たちに対する罪の赦しとは、そういうものであることを明らかに示してくれているのがイエスの語られる、譬えなのです。とことん「赦します」というのが神様からの私達へのメッセージです。

 

ところがこの譬えはまだ続きます。借金を帳消しにしてもらった家来が、百デナリオンを貸した仲間に出会います。百デナリオンとは、家来が王様にした借金の50万分の一の額で、現在の金額で百万円程度です。家来は仲間の借金の返済を迫り、それが出来なかったとして、ついには牢屋に入れてしまいます。

 

一体こんなことが現実にあることなのでしょうか。この家来はこんな恩知らずな行為をよくするもんだな、と思ってしまいます。でも、よく考えてみますと、現実には私たちは案外そんなことばかりしてるのではないか、それがイエス様の私たちへの問いです。

 

あなたは莫大な罪を許されているのに、そのことを忘れて友達を赦そうとしていないのでは無いか。赦されたにも拘わらず、相変わらず、私たちは許し合わないという、私たちの現実に向かってイエス様が語りかけておられるのです。

 

「わたしがお前をあわれんでやったように、お前も憐れんでやるべきではなかったか」と。あなたもそのようにしなさいとよびかけられているのが私達です。 

実際にできるかどうかはわからないけれど、そう呼び掛けられています。

 

ハンセン病にかかったために、家族から別れさせられ、社会から隔離されて施設で尽きることの無い怒りや無念の思いを懐いて一生を過ごさねばならなかった方々がおられます。

そのお一人で、すでに亡くなられていますが、国立療養所大島青松園という施設におられた塔和子さんというクリスチャンになられた詩人がおられます。

私たちの知り得ないたくさんの苦悩を詠んだ詩が多いのですが、慰めに満たされた詩も詠まれています。

「いのちの詩」という詩選集の中の、「エバの裔」の章の「ぬれているとき」という題の詩です。

 

「ぬれているとき」

 

ほんとうは

何度も終わりを見たのです

ぽっかり口をあいている

かわいた穴を見たのです

それでも

からっぽになったとき

もう空っぽになりようがなく

また

じわじわとまわりからぬれてゆき

 

くみ上げなければならない程になったのです

私の知恵でもなく

計らいでもなく

やさしい何者かの愛撫でした

あなたの見ている私はほかでもない

いつも満ちているとき

情感にあふれている壺を抱いて

みずみずしく

ぬれている

私なのです

 

苦しみや憎しみや怒りにも拘わらず、立て直され満たされていると感じた塔さんの詩です。

人間の座標軸は、神様との関係という縦軸と、隣人との関係という横軸から出来ています。ですから、主イエスは「神への愛」と「隣人への愛」を第一の掟とされました。「罪」とはこの縦軸と横軸を砕いてしまう力であり、「ゆるし」はそれを立て直す力です。

私たちが完全に赦されていることを知ったならば、そのことが、赦し合うことが困難な現実へと私たちを立ち戻らせ、そして許しあうことを可能にする力を与えてくれると思うのです。

 

今週の土曜日から、クリスマスに入ります。クリスマスには特別の意味があります。それは、イエス様がこの世に来られてこの世は根本的に変わったと言うことです。それは、イエス・キリストが、私たち人間がどのような者であろうとも、どのような罪にあふれた存在であろうとも、神の赦しがすべての者に与えられる。それをしっかりと告げ知らせて下さったからです。

 

私たちが全て赦されていることを知ることの大切さ、そして赦すことの大切さ、をイエス様が示してくださり私たちの中で働いて、真に私たちを立て直し新しい人間関係へと導いて、私達を生かして下さる。それがクリスマスの喜びの意味です。

 

 

私たちのこれまでの生き方、あり方にも拘わらず、私たちには神から完全な赦しが与えられた。その赦しを受けて、私たちはこれまで、どんな生き方どんなあり方であったにしても、「あなたもそのようにしなさい」ということばに励まされてそのように出来る力を与えて下さいと祈りつつイエス・キリストに向かって歩みたいと願います。

2016年11月13日 西福岡教会説教要約

 

説教「いちばん偉い人」

 

 

マタイによる福音書18章1節-5節

 

 

 

 

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 

 おはようございます。今日は教会のバザーの日です。教会に足を踏み入れられる人達との出会いを喜びながら、教会の皆様もそれぞれの役割でお忙しいことと思いますが、精一杯楽しいバザーといたしましょう。

 

  イエスが弟子たちに教えられたのは、全ては神から与えられるものなのだ。その神に聴き続け、信頼し続ける時に、人間に本当の信仰や人を活かす力が与えられる。しかしその力は人間の持ち物ではなく、神の力によるものだ、という事をイエスは徹底して、弟子達の心と体に刻み込もうとされました。

 

それは現在の私達にとっても全く同じなのです。私達が毎週礼拝に出て、新たに神の声を聞かねばならないのは、真理が私達の持ち物とはならないからです。私達の中にある人間の考えや欲望が、神の御旨や、イエスの言葉をすぐに忘れ去らせるからです。

 

 福音書の言葉や出来事の記事は、そんな私たち人間にとって繰り返し聞かねばならない神からの言葉を、教え示すために書かれたのだと思います。

 

 今日の、短い聖書の箇所はそのことを、はっきりと示しています。今日の箇所は弟子たちが、天国では誰がいちばん偉いのかという質問をしている場面です。それに対してイエスは今度もまた、彼らに別の教え方をされるのです。

 

 それは、子供を真ん中に立てて教えられます。心を入れ替えて子供のようにならなければ、本当の人の在り方などと言うことは理解できないし、ましてやだれがいちばん偉いなんてことを考えるなどという事自体がとんでもない的外れだ。と言われるのです。

 子供とはどういう存在なのでしょう。子供のどういう面を見てイエスはこういうことを言われるのでしょう?

 八木重吉という詩人がいます。とても素朴な美しい詩を書く詩人です。クリスチャンとして有名な詩人なので私はずっと気になっているのですが、明治のクリスチャンらしく、ピューリタン的な、ある意味で自虐的な求道の姿勢にはちょっと共感できない面が多いのですが、彼の子供へのまなざしや、自然への感性はすごいものを感じます。

今日は彼の詩から六編ほど子供を詠んだ詩を紹介してみようと思います。

 

 1)「赤ん坊がわらう」 

赤んぼが わらう あかんぼが わらう

わたしだって わらう あかんぼが わらう

 

 2)春<朝>

   ほんとによく晴れた朝だ 桃子は窓をあけて首をだし

   桃ちゃん いい子 いい子ぅよ

   桃ちゃん いい子 いい子ぅよって歌っている

 

 3)こどもが

   なぜによろこんでいるかって?

   なあんにも

   あとにのこそうとしないからさ

 

 4)「子供の目」

   桃子の目はすんで

   まっすぐにものを視る

   羨ましくってしかたが無い

 

 5)さて

   あかんぼは

   なぜに あん あん あん あん なくんだろうか

   

ほんとに

   うるせいよ

   あん あん あん あん

   あん あん あん あん

 

   うるさか ないよ

   うるさか ないよ

   よんでるんだよ

   かみさまをよんでるんだよ

   みんなもよびな

   あんなに しつこくよびな

 

 6)子供

   子どもになぜ惹かれるか

   子供は

   善いことをするにも

   悪いことをするにも一生懸命だ

 

 イエスは、子供が、八木重吉が感動して歌ったような存在だということを私たちに思い起こさせているのだと思います。幼子は、何か自分が偉い者になろうとか、他の人に比べてどうだとかいうことは全くない存在です。ただ、まっすぐに親や他の大人を信頼して、率直に要求をぶつけ託していく、そういうひたむきさがあふれている存在だと言えるように思います。八木重吉の詩はそういう子供の姿に感動しているのだと思います。

「子供のようにならなければ」とはまっすぐに人に向かう子供のように神様にまっすぐに向かうものであれということではないでしょうか?それは、素直であっても、ぶつぶつ文句言いながらであっても、構わないから、他の人と比較したり他の人を言い訳につかったりするのではなく、神様にまっすぐに向かい合うことだと思います。

 

 野の花や空の鳥のように、どんな人も、どれくらいえらいとか、他の人に比べて自分はどうだろうとか、そんなことを全く気にすることの無いところに、本来人は置かれているという事でしょう。

 神が与えて下さった天国は、全てが同じ低みに立ち、誰より偉いとか、えらくないとかいうことが全く問題にならない世界なのだと言われているのです。

 

私たちは与えられている祝福をうけ、与えられているものを受けて育って行くように造られています。ただ与えられたそこにいること、そして育っていく存在です。

他の誰かより偉くなりたいとか、あの人には勝ってるとかあの人には負けてるとかいう他との比較の中に生きるのではなく、私ひとりのために手を差し伸べてくださっている神様と向かい合っていきましょう。

 

 

 私達人間のいのちは、そのような低みと神様と共にある祝福の中に置かれていることを、今日の聖書からしっかりと聴き、今日のバザーの働きの中でも、すべての人が等しく祝福の場に置かれていることを喜ぶことのできる機会として、今日のバザーを精一杯元気を出して楽しみましょう。

2016年10月23日 西福岡教会説教要約 

 

「弟子たちの信頼」

 

マタイによる福音書17章14-20節

 

 

 

 おはようございます。皆さんお元気でしょうか。

 

 イエスは三人の弟子達と共に「参上の変貌」の出来事の起きたヘルモン山から下山されると、多くの群衆がイエスめがけて集まってきました。イエスの周りには常に多くの群衆がいました。だからこそ、イエスは時折寂しい所に出かけられて祈られたのです。

 

下山された所も、多くの人々の溢れる所でした。それは、病の癒しや、貧しさからの解放や、差別からの解放、占領軍のローマからの政治的な解放など、多種多様な苦しみの中からの救いと解放を求めての事でした。

 

今日の聖書箇所の16節は、一人の人がイエスに近づいて、自分の息子を憐れんで欲しい、てんかんの病を持ち、とても苦しんでいる。イエスの弟子たちに癒やしてほしいと頼んだが、治すことが出来なかった、と訴えたのです。それに対して、イエスが嘆いて、その子をいやしたという記事です。

 

イエスが弟子たちを宣教に送り出すに際して語られた言葉は、「行って『天国は近づいた』と、宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、思い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」です。

 

さらに、弟子たちを激励して次のような言葉を述べています。

 

迫害があるだろう。しかし言うべきことはその時に教えられる。話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる、父の霊である。

人々を恐れるな。本当に恐れるべきは神様なのだ。人々の前で、イエスの仲間だと言い表しなさい。イエスの弟子だという理由で冷たい水一杯でも飲ませてくれるものには、その報いがある。

 

これらの言葉に励まされて、弟子たちは出かけて行きます。弟子たちは、多くの業を成すことが出来たのでしょう。

 

イエスの激励の中心は、全ての業をされるのは神なのだから、弟子達はそれを信頼し、勇気を持て。恐れるな。イエスの名を大胆に語れ。という事でした。弟子たちは、その体験によって大きな自信を持ったのではないでしょうか。

 

ところが、イエスがヘルモン山のふもとに祈るために出かけ、そばにいなくなった途端に弟子達はそ多くのわざを行うことが出来なくなったのです。

 

弟子たちのもとに帰ったイエスはそのことを聞いて、厳しい言葉を弟子達に語られます。「なんと信仰の無いよこしまな時代なのか。いつまで私はあなた方とともに居られようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」

 

これは、イエスの対決の場であるエルサレムに向かうという緊張感を、弟子達の誰も理解が出来ない事への悲しみの言葉だったのかもしれません。そしてこのことは、イエスの死に至るまで続く、イエス自身の受けるべき試練の内容であり、とても弟子達にはそれを理解できる内容ではなかったと思われます。

 

そのことを、イエス自身も十分に承知の上でこの厳しい言葉を語られたに違いありません。イエスは、決して弟子たちに向かって、怒りを爆発させて、弟子たちを罵倒したり、駄目出しをされたのではありません。

 

「イエスにとっては、病を癒したり、悪霊を追い出したりすることを弟子たちが出来るかどうかは問題ではなかったのです。そんなことが問題だったら、弟子達の内誰一人としてイエスに付き従うことは困難だったでしょう。

そんなことが問題だったら、現在の私たちのうちだれもイエスに従うことはできないと言わざるを得ないでしょう。

 

イエスの本音は弟子達が、いつまでも本当に大切なことに気付いてくれないという嘆きだったのだと思います。

 

次にとても面白い、弟子達とイエスの対話が記されています。「弟子たちは、ひそかにイエスの所に来て『なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。とあります。

 

どうして、弟子たちは「なぜ」と聞いたのでしょう。それは弟子にとって確かに真剣で正直な問いであったと思われます。

かつて悪霊を追い出した体験がある。だから、今回も当然「悪霊を追い出せるはずだ。」なのにどうして今回は追い出せなかったのか」という問いです。

 

でもそんな力を持つ事は信仰があるということではないし、それが勘違いだとイエスは嘆かれているのがこの言葉だと思います。

 

弟子達にとっても、現在の私達にとっても、一番の問題点は、自分が信仰の持ち主になれると勘違いをすることなのではないでしょうか。

 

信仰は人間の持ち物にはならないのです。弟子たちはあのイエスの激励を伴う宣教への送り出しの中で、力を与えられ、イエスに対する信頼、神に対する信頼を確かに持てた。そしてそれを自分の持ち物と、弟子たちは考えた。

 

そういうことは私達にもしばしば起こります。

聖書を深く読んでイエスの言葉の真実を深く理解し、イエスに対する信仰を確信するに至った。私たちはイエスの述べる真実を私達の物とした。

そのように考え、受け取ることが勘違いなのです。そんなふうに考える時、私たちは狂うし、弟子達も私たちも無力となるのです。

 

私達に、神からの祝福が与えられ、神の御心やイエスの言葉が自分の確信に変わった。そんな信仰が与えられたという出来事が自分の中に起こるときは同時に、でもこれって確かな事だろうか。私に与えられた確信は私の錯覚にすぎないのではないだろうか。そんな不安が伴うものです。

 

そしてその不安は、必ず起こるものだと思うのです。何故なら、信仰は私たち人間の持ち物には決してならないからです。

 

今は亡きクリスチャン作家の遠藤周作は、「信仰とは99%の疑いと1%の希望だ」と述べています。遠藤周作さんの言う%の値はともかく、信仰はどこまでも与えられるもので、自分の確信とは無縁の物だと言い続けていました。

 

私たち人間は揺れ動く存在です。しかし揺れ動くから何もわからないのではなく、揺れ動く中で真実の言葉はわたしたちに響いてくるのです。だから弟子たちはイエスに従って行動したし、私達もイエスの言葉に感動できると思うのです。それは、向こうから与えられてくることなのです。

 

私達は、与えられる存在でしかありません。なのに、自ら摑んだと思い、獲得したと思った途端に狂いが始まってきます。それが、人間の陥る罠です。人間は神と人とから聞いて行くしかない存在だからです。

 

弟子たちが「なぜ」とイエスに聴きました。それは弟子の信仰の働きとは、自分の力や能力ではなく、その時その時に神から与えられるものであることを忘れ去ってしまっているからでした。

自分の力、自分の能力あるいは自分の信仰の強さによって病の癒しが出来る筈だと思い込んでいる、恐るべき思い上がりが、弟子達にこの「なぜ、悪霊を追い出せなかったのですか」という問いを持たせたのです。

 

イエスが弟子たちに教えられたのは、全ては与えられるものなのだ。全ては神から与えられるものなのだ。そこに信頼する時に、弟子達には思いもかけないことが起こる。しかしそれは神の力によるものだ、という事をイエスは徹底して語り尽くし、弟子たちの心と体に刻み尽くされたのだと思います。

 

現在の私達にも、それは全く同じ事です。神の御旨に聴き、イエスの言葉に聴き続けて生きる時に、私達が考えもしない事が起こると思うのです。そのために教会の毎週の礼拝があるのだと思います。

 

先日、大宰府の、浄土真宗本願寺派光蓮寺の講演会に出かけてきました。講師は東八幡バプテスト教会牧師の奥田知志先生がなされ、講演テーマは「みんなが幸せな社会って?」~貧困・格差を考える~でした。

 

奥田知志先生の迫力ある講演に感動しました。その後、栗山俊之さんと言う筑紫女学園大学教授の方との「キリスト×仏教」と言う対談も行われました。

 

対談後、質問の時間に一人の高齢の女性が立たれ、「結局私たちは天国に行くのか、浄土に行くのかどちらでしょうか」と質問されました。笑いに包まれたのですが、奥田知志先生は「どちらでもいいのではないでしょうか。多分同じところだと思いますよ」と笑いながら答えておられました。行先は、私たちが決めるのではなく、神様や仏様が決められるという事でしょう。私たちは「とことん、私はあなたを救う」と言われる神さまに信頼して、神様のなさることにお任せする存在にすぎないのだという事だとおもいます。

 

信仰にとって最も大切なことは、常に新しく御心に聴きながら生きること、そして、結果は新しく神様によって与えられることを信頼して歩むことです。

2016.9.25  西福岡教会説教要約

 

         説教 「真のパン種」                                             

 

マタイによる福音書16章5-12節

 

 

 

 

 

 

 おはようございます。皆さんお元気でしょうか。

 

 本日聴きます聖書の箇所は、マタイによる福音書の16章5-12節です。新共同訳の小見出しには、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種と記されている部分です。

 パン種のたとえはマタイによる福音書13章33節に「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」とイエスは語っています。そこでは、僅かのパン種をパンに混ぜて焼くと大きく膨らむところが、天の国のイメージなのだと語られています。

しかし、今日の聖書箇所では、膨らみさえすればそれでいいというわけではない、何が膨らんでいくのかその内容が問題であると語られているのです。

 

マグダラの地で、イエスはファリサイ派とサドカイ派の人々に遭遇し、「天からのしるしを見せて欲しい」と挑発を受けます。しかし、イエスはその要求に答えることを拒否されます。

 

このファリサイ派やサドカイ派の人々の心の内は、助けを必要としている苦しみの中にある人達のために、天よりの神様の恵みを願う態度ではないのです。

そうではなく、彼ら自身の不安を、目に見えるような形を示されることによって解消し、安心を得たいという利己心に基づいている態度なのです。そんな目的でしるしを求め、神様を試みることによって自分を安心させようとする姿勢の情けない態度にイエスは怒り嘆いておられるのです。

 

「しるし」を求める姿勢からは、何の出会いもないし、何も与えられません。それ故に、イエスはファリサイ派やサドカイ派の人々の要求に怒りと嘆きの中で拒否する姿勢を貫かれたのです。

 

イエスがマグダラ地域を去ってから、弟子たちに語りかけられた言葉が、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」でした。

 

その言葉を聞いて弟子たちは自分たちがパンを忘れたからイエス様が怒っているのだと勘違いします。そんな騒ぎの中で、イエスは少し嘆き気味に、弟子たちの会話を指摘されたのです。

よく考えなさい。パンの有無の問題ではないのだ。貴方たちは、五千人の供食の出来事をもう忘れたのか。あれだけの人々が食べて満腹したうえに、12の籠に余るまでにパンが増えたのをもう忘れてしまったのか。あれは、パンがあるとかないとかの問題ではなかったではないか。そんなことがまだ解らないのか。それではあまりにも情けないではないか。と弟子たちに語られたのです。

 

弟子たちはパンがないという情けない騒ぎの中にありましたが、それでもイエスは弟子たちに対しては決して見捨てることの無い重要な問いかけの言葉をかけられるのです。それが「ファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」でした。それは「心して・・・・・用心せよ」と言う意味です。

 イエスは、何故これほどまでに弟子たちに強い警告を与えたのでしょう。それは、ファリサイ派やサドカイ派の人々の、ものの見方や生活の仕方に潜んでいる大きな危険を見抜いているからです。

 

両者は厳格な律法主義者ですが、自ら複雑にしてしまった律法を守れない者達を「地の民」と言って軽蔑し、差別をしていました。その被差別者には、経済的な理由から「地の民」とならざるを得ない人々も含まれていました。

さらに、彼らはメシヤを待望し、このメシヤがエルサレムとイスラエルからユダヤ教徒でない異邦人を追放するという考えを持っており、異邦人を軽蔑し差別していました。

 

ですから、イエスが語られた、ファリサイ派やサドカイ派に人々のパン種とは、独善的な選民思想と律法主義に固まり、自分達こそ神様から正しい律法を与えられた優れた民だと思っている思い。そして、神も自分たちを守って下さると考えて、人間の勝手な思いを大切にしている人たちの生き方。その結果、貧しい人や差別の中で苦しんでいる人たちを軽蔑し、人間として最も大事な優しい心を失って行った人たちの生きる姿勢です。

そんな人たちの心のありようをイエスはファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種と言われたのです、

 

それに対して、イエスが語られる真のパン種とは、神様が一人一人を愛していてくださるという福音であり、神さまは私達と共におられるということです。だから私たち一人一人が苦しみの中にある人を大切にし、支えつつともに生きていこうとする生き方の中心にあるもののことです。

 

イエスは、真に人が励まされる言葉を持って苦しむ人々、悩む人々を支えられました。言葉だけではなく、行動でも多くの人々の病を癒し力を発揮されました。イエスの病の癒しは、病による痛みや苦しみからその人々を解放されただけではなく、再び地域社会で生きる人々をその場に戻して人間関係の中に復元されたのです。

そしてその生きる姿勢は、徹底的に神様の御旨に従い「み心のままに、この身になりますように」と言う姿勢でした。それは、十字架の死に至るまで一貫していました。そのようなイエスの生きる姿勢を支えている力が、真のパン種であると思います。

 

イエスは何故、とても強い調子で、ファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種に、「心して、用心せよ」と語られたのでしょう。

それは、私達人間は、自分の心の中心に何を置くかによっては、いとも簡単に神の愛の導きから外れてしまうからです。

人間はいつの間にか自分が立派であると思ってしまうし、自分が立派な行いをしている人間だと思うようになります。そしてそれを守ろうとして、自分たちの派閥グループを作り強化しようとします。その結果権力に近づいて反対勢力を圧迫したり、利益を貪り人を支配する集団になったりします。

 

人が生きるのは、どのように生きるかについてのノウハウが大切なのではなく、自分の中心に何を置くかが大切であり、その中心に置くものによっては大きく狂ってしまうことが起こることも知らねばなりません。そのことをイエスはファリサイ派やサドカイ派の人々の生き様を見て、弟子たちに一番大切なことは、中心置くべきものは何か、それはイエスが示された神様の福音ではないか、と注意したかったのであろうと思います。

 

 今から87年まえにアメリカで生まれ、47年前にアメリカで公民権運動を始め、46年前にノーベル平和賞を受賞し、42年前にアメリカのテネシー州メンフィスで暗殺された、マルティン・ルーサー・キング牧師は人種差別運動で、アメリカに黒人差別の壁を打ち壊すきっかけを作りました。

キング牧師の運動や活動を支えていた言葉は 「愛こそがあらゆる問題を解決するたった一つのカギなのです」という言葉でした。

キング牧師の生き方やあり方を生み出した中心にあるパン種はこの「愛」ということだったにちがいありません。そのパン種を仕込んだのは、イエス様です。マタイによる福音書の山上の説教の中で「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせて下さるからである。」そういうパン種が中心にあったからこそ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」

という生き方をしたのでしょう。

 

キング牧師は、言い続けました。「暴力に 暴力で こたえてはいけない。 愛の力を 信じ、わたしたちを にくむものを 愛さねばならない」

 これは、キング牧師がアメリカに仕込んだ真のパン種です。

 

 イエスはこころのなかに「真のパン種」を持ちなさいと語りつづけられます。そして、一人一人がイエスに出会って真のパン種をしっかり中心に据えていくこと、そして、また、一人一人が真のパン種になっていくことが大事です。このイエスの語り掛けを心にとめて今週を歩んでいきましょう。

 

 

           2016.9.11  西福岡教会説教要約

 

        説教 「口に入るもの、口から出るもの」

 

                      マタイによる福音書15章1-20節

 

 

      

 

 

 

 おはようございます。皆さんお元気でしょうか。

 

少し厳しい話から始めなくてはなりませんが、現代の日本では、ヘイトスピーチ、ネットによる人権蹂躙、脅迫、人種差別、若者の貧困、悪徳企業による搾取、戦争の企て、など多くの問題に直面しています。

特にネット社会で匿名の悪意がまかり通る世の中になって、平気で重大な悪質な脅迫を行う風潮が出てきています。

 

 一見どうしようもないように思える現象ではありますが、やはりこのようなネットを使った言葉による暴力を防げるような技術と体制を整えなければならないと思います。決して言論封殺の暴力を許さない決意を全ての人が持たない限り、人を傷つけて平気な社会は変わらないのではないかと思います。

 

 今日の聖書は、まさにこのことに深く関わっている箇所です。

 

 聖書の福音書の中には、イエス様とファリサイ派や律法学者の人々との議論論争が数多く記されています。

そしてその論争の結末が、イエス様の十字架の死です。直接的には占領軍のローマの総督ポンテオピラトの裁判によってイエス様は殺されるのですが、間接的にはユダヤ教の宗教権力者の圧力によってイエス様は殺されるのです。

 

ユダヤ教の宗教権力者との論争はやがて自らが処刑されて死に至るであろうとの認識を、イエス様には当然のことながら覚悟していました。

でもイエス様にとって、父なる神の真の教えがどんな内容であるのかを人々に伝えることは、死を覚悟してでも語らざるを得ない事でした。私たちも本日の聖書の緊張した場面での対話にしっかりと心を集中して聴きたいと思います

 

 15章1節では、ファリサイ派の人々と律法学者たちがエルサレムからイエスの活動しておられたガリラヤに来たと記されています。ガリラヤはユダヤの中心地エルサレムから。道を辿れば150Kmを超える北方の辺境の地にある、異邦人の多く住むところです。

そこにファリサイ派の人々や律法学者というユダヤ教の中枢を占める宗教権力者のグループの人達が、わざわざイエスに会いにやってきたという事は、イエスの影響力が既に無視できない状態になっていたという事でしょう。

五千人の供食の軌跡も、あるいは数々の奇跡の内容もエルサレムまで伝わり、これを無視することが出来なくなっていたという事でしょう。

 

 エルサレムから来た人たちは、イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」と迫るのです。

 

この「昔の人の言い伝え」とは、ユダヤ教の律法の解釈のことで、旧約聖書ではレビ記という、第三番目の書に記されている内容の一部です。

 

 ユダヤ教に帰依した人々にとって、神様に従うとは、律法に記され、言い伝えられた宗教的生活上の決まり事を順守するということであったのでしょう。

手を洗わないなんてユダヤ人の風上にも置けない、許し難いとんでもないことだと考えていたのでしょう。

 

 これに対してイエスは、実例を挙げて彼らが順守すべきという「昔の人の言い伝え」の主張の実態と矛盾点を明らかにされます。

 

それは、十戒のうちの第五戒の「父と母を敬え」に関するものです。

「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言いさえすれば、父を敬わなくてもよい」とされているという内容です。これは、昔の人の言い伝えを盾にして、十戒をないがしろにするものです。

 

 ここには、人の言い伝えをもとにして、その最も大事にすべき神の教えをおろそかにしている。こんな重大なごまかしをしていて、他人の行動を咎めるとはどういうことだ、とイエスは厳しくユダヤ人指導者に反論しているのです。

 

  そして11節に、今日の説教題とさせて頂いた言葉が続きます。

「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるもが人を汚すのである」

 

 ここで語られている「汚す」とはどういうことでしょうか。汚すとは人間の尊厳が損なわれる、傷つけられるという意味でしょう。

 

 イエス様は食物規定の厳しいユダヤ教の戒律を例に引きながら、口に入るものが人を汚すものではない。それは口から喉を通って胃で消化され、腸で吸収されてトイレに排泄されるに過ぎないものだ。

口に入るものとは、食べ物のことだし単なる「もの」にすぎないのだと言われているのでしょう。

 

 つまり、律法に記されている食物や手洗いやあるいは宗教的儀式を含めた戒律規定を守らないことが人の尊厳を傷つけたり、罪として神から咎められたり断罪されるのではない。とイエスは言われているのです。

 エルサレムから来た人々にとって、イエス様のこの言葉は極めて挑戦的で、彼らの依って立つ律法や言い伝えを丸ごと否定されたのです。彼らは、激しい敵意と殺意を抱いたに違いありません

 

 さらにイエスは、口から出てくるものは、心から出てくるものであって、これが人間を汚すものであると具体的に話されたのです。そしてそこには7つの例が記されています。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などです。こういうものは私たちの心から出てくるのだと私たちのこころに目をむけられます。

 

私たちも、無意識的によく人の悪口を言ってしまします。言うときは、意気投合して、思いのままに好き勝手に口からでてくるということは日常的に経験することです。

 

 星野富弘さんの花の詩歌集「種蒔きもせず」の中に「トリカブト」と言う詩があります

 

覗いてみれば

あるわ 

あるわ

 

心の中に

同じ顔をした

 

毒と薬

 

私達の心には、トリカブトのような毒がある。それを星野さんは「あるわ、あるわと」表現しています。ほんとに「あるわ、あるわ」という感じです。

ところが、星野さんはそれをとも表現しているのです。私達の心に渦巻くものは、毒にもなるが、薬にもなります。 どこに違いがあるのでしょう?

 

毒は自分の思いに囚われて、相手を苦しめたり、殺してしまうためのもの、薬は相手への配慮、回復のために使うものです。

違うのは相手への共感や思いやりがあるかどうかではないでしょうか?

他人への愛と共感のない心は、私たちの心の一部ではあります。それでも、私たちは人をいやす薬の働きを持つ心を育て、私たちの心から出ていくものが猛毒ではなく薬でありたいと願って生きて行きたいと思います。

 

イエス様は、ものに問題があるのではなく、私たちの心のありようが問題なのだと語っています。心に配慮も他者への愛もなく口から出るものは人を傷つける、そのことに気付きなさいというのが今日のイエス様のことばです。

 

 他人を愛することから離れて、神の支えと導きを忘れていると、とんでもないことが起こる。ユダヤ人の律法の指導者との対話では、イエス様はそのようなことを私達に示そうとされようとされているのでしょう。

 

それが、「口に入るものと口から出るもの」と言う言葉でかたられたことがらではないでしょうか。このイエスの言葉を胸に刻んで、この週を生きて行きましょう。

 

 

(祈りましょう)

 ネットに支配された、憎しみ、暴言、誹謗に立ち向かう力を私達の社会に与えて下さい。

 人権と平和と自由を大切にし、民主主義を大切にする社会へと歩む力を与えて下さい。

 地震や津波や豪雨による災害で苦しむ人達を支えて下さい。

 原発の破裂で故郷を追われている人達を忘れることがありませんように。

 世界中で戦争のために命の危険にさらされている人たち、難民となって他国に逃れている人たちに寄り添ってください。

 ボランティアで働く人達を励ましてください。おにぎりの会を支えて下さい。

 主の平和がもたらされますように。

 私達の救い主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン

                                 2016年7月10日 西福岡教会説教 

       「家族」

 

       マタイによる福音書12章46-50節

 

 

おはようございます。梅雨が明けたかどうかわからないうちに猛暑に襲われる日々となりました。皆様も十分に御健康に気をつけて下さり、充分な水分補給と休息を取るように心がけて頂きたいと願います。

 

先週は、お休みをして申し訳ありませんでした。国立医療センターにおいて一ヶ月くらい前から鼠径(そけい)ヘルニア(脱腸)と診断され、手術の必要があることを告げられていました。

当初6月27日予定の手術が、病院の都合で7月1日になってしまい、私は前日の6月30日に入院しました。先に検査入院されていましたNさんにお会いし、Nさんが良好な検査結果であることをお聞きして喜びました。

翌日の手術は順調に運び、内視鏡による手術という進んだ技術での外科手術のおかげでとても楽に手術を終えることが出来ました。

ところが、病室がナースセンターの真ん前で、部屋のドアも閉められない全館冷房の部屋で、チューブを両腕に何本も付けたままで身動きも出来ない状態で昼夜を過ごしましたので、寒くて風邪をひいてしまいました。

さらに、ナースセンターには一晩中患者さんからの呼び出し信号が止むことがありません。夜勤の看護師さんの勤務の大変さを実感し本当に驚かされました。私の部屋は七階の西病棟でした。人数は不明でしたが、そこに多くの入院患者さんがおられ、入院患者さんからの看護師の呼び出し信号がほぼ一晩中鳴りやむことなく、そのため私は眠ることが出来ませんでした。

これはたまらんと思い、翌日の土曜日に担当医に、退院を申し出てすぐに許可をされました。帰宅すると、すぐに38度を超える熱が出て、一瞬感染症かと緊張しましたが、風邪に違いないと思っていましたので、日曜日と月曜日とを二日間しっかり寝て過ごすと、火曜日には平熱に下がりました。現在は何の問題もなく,多少体力は落ちていますが、平常どおりの生活をしております。

 

今日は参議院議員選挙の日となっています。私は期日前投票をしてきました。先日のバングラデシュのテロ事件で、日本人の方が7人も犠牲になり、JICAで何回も出張したことのある私にはとても他人事とは思えませんでした。テロとの戦いを日本の現首相が公言して以来、既に日本人にとって世界中で安全なところは無くなってしまいました。

それでも、軍事力を持って他国に進出し、アメリカ軍と一緒になって戦争をし、人を殺すことなどが決してあってはなりません。

60万人のアフガニスタンの人々の生活と命を支える活動を実行されている、ペシャワール会の中村哲医師の活動や、ケニアの孤児院で子供の生活と教育を守っている菊本照子さんのような地道な人道支援の活動をこそ、私達の国は積極的に支援すべき国際貢献の働きでしょう。

 

今日司会者にお読み頂いた、聖書の箇所はマタイによる福音書12章46-50節の小さなエピソードです。

イエス様が人々に話をしているときに、イエスの家族がイエスに話したいことがあって、外に立っていたという事です。すると、ある人がイエスに、「あなたのご家族が話したいことがあって外に立っていますよ。」と告げるのです。

 

イエス様にはどんな家族があったのでしょう。マルコによる福音書の6章3節には、イエスの家族の構成が述べられています。ここには、母マリア、兄弟のヤコブ(ユダヤでの後のキリスト教のリーダー)、ヨセ、ユダ(ユダの手紙の著者)、シモンという四人の弟たちと、複数の妹達がいたことが書かれています。ここには父親のヨセフさんは記されてないので多分亡くなったのだろうと考えられえています。イエスの家族は、母マリアと、少なくとも7人の兄弟・姉妹であったことになります。

 

皆さんは、この記事を読んで何か不自然だなと思いませんか。

この記事は、イエス様が旅先から故郷に帰ってきて、昔から互いによく知っている人々にさまざまなお話をしている最中に起こった出来事です。多くの人に向かって話をしている最中に、たとえ家族が見えたからと言って、話を中断して別の用事をしたりするでしょうか。そんなことは普通有りえないことです。

たとえば、私が説教をしている時に、私の息子達が突然東京や長崎から帰って来て、緊急な用件があったとしてもそれは礼拝が終わってから話すべきことです。そのために礼拝を中断するようなことは起こりませんし起こしません。

 

ではそのような非常識なことを、イエスの家族は何故敢えてしたのでしょう。

マタイによる福音書の手本となったマルコによる福音書3章21節には、『身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。』と記されています。「イエスは気が狂ったと思った」とまで口語訳では記されています。

そうです、親戚の者達はイエスのお話を止めるために集合場所に来たのです。

イエスの家族はイエスの存命中は彼の行動に賛同し協力してはいなかったのです。人は、自分の近親者よりも、自分と直接関係のない人々に、より親密さを感じるものです。

 

この47節でイエスの家族が来たと告げた者に対して、イエスは48節で、『「私の母とはだれか。私の兄弟とはだれか。」そして弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。だれでも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」』と言われたのです。

 

ここで一つ勘違いしてはならない事柄があります。イエスは家族の存在を軽く見たり、不必要であると否定されているのではないという事です。

 

人はいのちを与えられて、家族の中で人間になっていきます。生活を共にし、愛し合い助け合い、共通の経験をする中で、人間とは何であるかを身に着け、学んでいきます。家族とは、この世にいのちを与えられて、初めてこの世を経験する、人の命の意味を身に刻み着ける場であるのです。もちろん、血縁でなくてもこの関係は十分に成立します。孤児院ででもその学びは基本的に全く変わりません。私はそのことを、ケニアの孤児院でたくさん経験させて頂きました。孤児院が家族なのです。

ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人ともに喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉があります。私はこの言葉こそ人が共に支え合って生きることの基本にある大切なことだと考えていますし、ボランティア活動の根本的精神だと考えています。この共に喜び、共に泣くという事を日常生活として体験できる場が家族だと思うのです。

 

家族は食事を共にしたり、団欒を共にしたりする中で、それぞれは異なっていても共通の興味を共有できる場でもあります。私の育った家族では、父が中学の音楽教師だったこともあって、音楽の話題が共通の興味の話題となることがしばしばありました。父が勤めていた萩市の中学校の音楽コンクールに出演するための夏の合宿をわが家でしたりしたこともあり、次女である姉はその生徒の一人と結婚することにもつながりました。

私の家は仏教で浄土真宗でした。宗教の話を、特にキリスト教についての話をすることはあまりありませんでしたが、わたし自身は長女の姉が北九州の「西南女学院短大」を卒業したこともあり、時折旧約の「十戒」の話を聞いたりしました。また、2人の叔父が太平洋戦争で戦死しその遺影が掲げてあったこともあり、仏教の何回忌かのおりに、寺の住職による法事では家族で死者について思いで話を聞く機会がよくありました。

 

兄弟の進学や就職や姉の結婚について話をする機会もありましたが、家族共通の目標については、両親の希望が主に語られていました。

 

このような家族による対話は、新約聖書に記録はありませんが、イエス様の家族でも語られたでしょう。同様な家族の生活経験をされたことと思われます。

 

イエス様が旧約聖書の学びと神殿や会堂での活動の後に、バプテスマのヨハネの弟子となり、宣教者となってからは、イエス様の関心と家族の関心は別れていったと思われます。家族はイエスの考えや言葉を深く理解できなくなっていったのだと思います。

イエスの家族は、自分たちの家族体験から離れることが出来ず、自分で目の前のイエス様の真実の姿を見ようとしませんでした。「彼は狂った」という人のうわさに惑わされてイエスの行動を阻止しようとしたのでしょう。

幼いころから共に暮らし、共に喜び共に悲しんだ家族。団欒し将来を語り合った家族。そこにおけるつながりは、自分の思いを共有しあう楽しい家族集団でした。しかし一方、当然のことですが、近く親しい関係であるが故の争いや憎しみも同居していたに違いありません。家族間では、しばしば他人よりも憎しみが強く深いことが存在することも当たり前のことだからです。

 

それに対してイエスは「わたしの母とはだれか、私の兄弟とはだれか」。そして弟子たちの方を指して言われた、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。」

誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」

 

イエスの指さす方向には、イエスの言葉と力と行動に驚き、イエスによって自分の思い込みや身勝手さが打ち砕かれた多くの人たちが熱心にイエスに聴き従っていました。

 

イエスに本気で向き合おうとすると、予期せぬところで、自己中心や家族中心が壊されるということが起こります。イエスが狂ったと思ってイエスの話を止めに来たイエスの家族は、自己中心と家族中心が神様によって砕かれる場面に遭遇することになったのでしょう。

 

カール・バルトと言う神学者は「ローマ書」という彼の著作の中で、「神に打ち砕かれることの無い存在は真の神との関係を保てない」と述べています。

 

イエス様を素直に見つめていると、必ず神による打ち砕きが伴いますし、打ち砕かれることなしにイエスに従うということは在りえないのです。

 

現在「まったり会」で読んでいる姜尚中さんの著書「悩む力」の4年後に出版された「続・悩む力」の中に「二度生まれ」という言葉があります。

 

人は自然の生を受けて家族や社会の集団の中で、また人間関係の中で人となって成長します。その精神的肉体的成長の中で、個人的な問題であったり社会的な問題であったりでいわば、大きな問題もなく普通に一生を終える人生を「一度生まれ」の人生と言っています。

ところが、人生の中では必ずと言っていいほど乗り越えがたい壁にぶつかることがあります。皆さんも経験されたことのある方も多いことと思います。それは様々な内容であり個人によって違いはありますが、それ以上先に進めないと思えるような大きな壁にぶつかることです。これは自らの生死の問題に直面するほどの大きな壁であることがあります。自分の存在や価値観やアイデンティティーが粉々に砕かれるような体験です。私も若き日にこのような体験を経験しました。そのような苦しみ苦難を経て自分の人生を生き直すことを「二度生まれ」の人生と呼んでいるのです。

 

また、昨日再放送があったのですがETVテレビ「心の時代」「何を恐れるか―本当の私を生きる―」と題して元基督教独立学園校長の安積力也さんが話をされていました。(西南学院大の音楽主事の安積先生のお父さんです)とても心打たれる言葉の数々でしたが、その中で「人は2度生まれる。1度目は存在するため、つまりおぎゃあと産声をあげて肉体を持った存在としてこの世に生まれる、これが1度目です。2度目は生きるため、真に生きるために私たちはもう1回生まれなければならない」とおっしゃっていました。

 

ヨハネによる福音書3章3節-8節を読んでみましょう。

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 

打ち砕かれて新しく生まれること、そこから新しい家族が始まります。

 

イエス様とその家族が平素どのような関係であったのかは聖書には記してはありませんが、今日の聖書の箇所にあるイエスのところに押しかけてきたイエスの家族には、なれ合いの関係を打ち壊すような神による導きと、人間に巣食う欲望や貪りや嫉妬心を乗り越える、家族一人一人の神による打ち砕きがありませんでした。神様の御心をその家族集団の中心に据えると言った、生まれ変わりの体験がありませんでした。

けれども

「誰でも、私の天の父の御心を行うひとが私の兄弟、姉妹また母である」というこの短い言葉の中に、イエスの家族が神様によって打ち砕かれ、新しい家族に作り変えられたきっかけが与えられ、始めて真のイエスと出会うことになったのだと思います。

イエス様は、家族の集会への割り込みを責めるのではなく、「誰でも。私の天の父の御心を行う人が私の兄弟、姉妹また母である」と言う言葉で、家族を砕き、目覚めさせたのです。イエスは常に真実の岩の上に立って、人を導かれるのです。事実、その後、イエスの十字架の死後、二男のヤコブは教会のリーダーとなり、四男のユダは「ユダの手紙」を書き、母マリヤはイエスの十字架の場までイエスの宣教の手伝いを続けたのです。

 

教会は神様によって打ち砕かれた人々によって造られる「家族」です。イエス様が私達にそのように宣言されています。

現実には、教会は破れと欠けて破損だらけの人々の集団です。それは私を含めて、誰に説明するまでもなく事実そうだとしか告白せざるを得ません。

でもその欠けた者同士が、共に礼拝を守り、助け合い、支え合い、喜びと悲しみを共にし、神様に支えられて神の御国の建設を目指す集いでもあります。教会はまさしく神様に呼ばれている家族集団です。

互いの欠点を受け止め、補い合いつつ、いつも神さまに打ち砕かれる人々の集団として、「二度生まれの人生」を歩んでいけるように神様に祈り、イエス様の導きを共に祈りましょう。

 

 

 

 

                                  2016.4.24 西福岡教会説教要約 

 

                               説教   私たちの病を担われた方」

 

        マタイによる福音書8章1-17節、

 

イザヤ書53章4節

 

 

山から下りられたイエスは多くの群衆に囲まれます。イエスが山から下りて最初になさったことは、病の人をいやしたということでした。

イエスの福音とは、山上の説教で集中的にその一部が語られていますが、神様の愛と赦しのメッセージです。

そしてイエス・キリストの福音は、目に見えない神様の支配と命の喜びの支えを示されただけではなく、具体的に人々の生活の中で苦しみの原因となっている、病の苦しみからの解放ということも、大切な福音の出来事の驚きとして示されたのです。私たちはこの病からの解放を「いやし」として理解しています。山上の説教のすぐあとにこの癒しの記事が挙げられていることが,イエスの福音を象徴しています。

 

今日の聖書箇所である8章3-17節には、マタイによる福音書で記された12の癒しの中の3つのいやしが述べられています

山から下りて最初になさったのは、重い皮膚病の人をいやしたことでした。重い皮膚病とは、原語でレプラ(癩病:ハンセン病)とかかれ、不治の病で恐ろしい病気として世界中で恐れられ、感染したと判断された人は隔離されて、それまでの人間関係を断たれて人里から遠ざけられました。

この人は、「主よ、あなたがその気になられれば、私を清くする事がおできになるはずです」ととても強い焦燥と不安に満ちてイエスに強く懇願しています。

イエスはその迫力に負けない勢いで、手をその人に差し伸べて、その人を抱きしめて「わたしもそう望むところだ。清くなるように(神にお願いしよう)」と語られるのです。

こわごわとその人に近づき、らい病に感染するのではないかなどという恐れなど全く見せることもなく、「清くなるように」と宣言されると、たちまちらい病は清められたとあります。ここに大きな迫力を感じます

そして、次にイエスはその人に、「誰にも話さないように気をつけなさい」「祭司に体を見せ、らい病が清められたことを(当時の病の権威者であった)祭司に見せて証明をしてもらえ」と言われました。

ここにイエスの癒しの目的が、はっきりと書かれていると思われます。イエスの心の中にある大事な事柄は、隔離され、家族と社会から隔絶され差別されている病を得た人が、社会と人間関係の回復をすることであったのでしょう。そのような目的以外には、自分には奇跡を行う力があるとか、自分の能力を見せつけることなどの意図はみじんもなかったのです。

 

第二のいやしのエピソードは、百人隊長が自分の召使いの病気に心を痛めて、イエスに直してもらおうと懇願するのです。「ただお言葉を下さい。そうすれば私の召使いは治ります」と頼みこんだのです。その言葉を聞いてイエスは、深い感動を憶えたとあります。イエスの癒しの出来事は、病人本人の思いだけではなく、それを心配する他者の願いに対しても与えられています。

第三番目には、ペテロの義母の癒しを行いますが、それは次に続く、悪霊に取りつかれた大勢の人達の癒しを行うための場面に備えるためになされたのでしょう。ここでも、イエスのところに悪霊につかれた病人を連れてきたのは、病を気遣い、イエスの力に信頼する人々です。連れてこられた多くの病人たちは皆いやされたとあります。

 

ここで、マタイはこれらの癒しがなぜ起こされたのかを、旧約聖書のイザヤ書53章4節のことばを示してその働きを説明しています。

彼は私たちの患いを負い 私たちの病を担った 

(彼が担ったのは私たちの病  彼が負ったのは、私たちの痛みであった)

彼はいやしたのではなく、彼は私たちの病を担われたのだと述べています。

 

 イエス・キリストの癒しというのは、日常の暮らしや社会的組織関係の中で傷つき悩みに落ち込んだ人、またさまざまな病の中で苦しみ差別され排除された人が、イエスの言葉の力と、病気を背負って下さる力とによって元気にされるということです。イエス自身の力や、イエスに信頼して従うことによって、再び新たな生きる力を与えられ、新しい人間関係へ引き戻されることです。

それは神に寄り添い、神を常に指し示し、神に従順に従われたイエス・キリストに与えられた、神の力から出てくるものでした。神の力に基づく権威ある者として、私たちの病を担われたからこそ私たちに力が与えられるのです。

 

 私たちの弱さと苦しさと病は、イエス・キリストが背負って下さる。ですから弱さと苦しさと病の中に逃げなくてもいい。決して倒れることはない。イエスが私たちを担って下さるからこそ、そこから私たちの生が再び始まる。 それが私たちの神から与えられる救いでしょう。イエスは私たちの重荷や苦しみや病を担って下さって、私たちを生きる場へと担ぎ上げて下さるのです。

 

 

 私たちの苦しみや病を担って下さり、そのようにして私たちを生かして下さるイエス・キリストにしっかり向き合って、信頼して一歩を歩みだしましょう。

 

     2016.3.13 西福岡教会説教要約 

 

       説教 「求める者によいものを下さる」

 

     マタイによる福音書7章7-11節

創世記50章 20-21節

 

  

「求めなさい、そうすれば与えられる。捜しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」という、この言葉は聖書の中でもとてもよく知られた言葉です。この言葉はわたしたちに、確かに勇気と元気を与えてくれます。

この言葉は、一回限りの命令形ではなくそれを繰り返し継続して実行することを要求する命令形で書かれています。私たちの人生を振り返っても、求めたからといって与えられるとは限らないし、捜したからといって必ず見つかるものではない。むしろ、求めても与えられず、捜しても見つからずに私達は苦労している。それでも、求め続けろ、捜し続けろ、門をたたき続けろ、と呼びかけているのがこの言葉です。神に願うことの日常的なしつこいまでの熱心な粘り強さと、あきらめない継続性がとても大事だということがまずあります。

 

 しかし、この言葉が本当に勇気と元気を与えてくれているのは、ただやみくもに熱心に求めたらお金が儲かるとか、宝くじに当たるとか、受験に合格するとか、出世するとか、事業に成功するとか、あこがれの人に振り向いてもらえるとか、自分の進むべきよき仕事が見つかるとか、そういった自分の欲求が求めたとおりに実現するということではないと思います。

私が願った通りになるということではないのかもしれない。しかし、思いもかけないものが与えられ、思いもかけないかたちで道が見つけられ、戸が開けられ人生が開けていくという事ではないでしょうか。

 

私は若い時に「一患者の祈り」という詩に出会いました。

その詩の中で次のように詠まれています。

 …

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞きとどけられた。

 

背ける身にもかかわらず

言い表せなかった祈りもすべて叶えられた。

 

私はあらゆる人のなかで

最も豊かに祝福されたのだ。

 

 思いもかけないものが与えられ、思いも掛けない形で道が見つけられ、戸が開けられ人生が開けていくということではないでしょうか。

 

そして、今日の聖書のマタイによる福音書7章の11節には神様は「よいものをお与えになる」と書いてあります。

 

この、「よいものをお与えになる神への信頼」を、身をもって示してくれたのが、イエス・キリストの生き方であると思います。そのイエスが私たちに語られているのが「だれでも求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたくものには開かれる」というメッセージです。

「求める」「探す」「門をたたく」というのは、自分の我欲を追求するのではなく、世の中に迎合することもなく、たとえ苦難の中でも、「無くてはならないものは求めさえすればいつでも与えられるようになっている」、と信頼することです。それは「見出してくれるのを待っているのだから、しつこく求めれば、見いだせるようになっている」。ということです。

 

旧約聖書には、神様に導かれて善きものが与えられたとの多くの物語が記されています。

創世記のヨセフさんをはじめヤコブの子供たちもそのように道が開かれました。天の父は私たちに「よいものを下さる」方、「神はそれを良きに変わらせて」下さる方です。

 

「すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。」私たちの人生はそういうふうにされているのだとイエス・キリストがはっきりと断言されています。聖書は人の人生はそのようにされていると告げる書物です。それは私たちの側からは考えられない事柄です。

 

私たちの考えや努力の延長線上に積み重ねの上で出て来る事ではなく、神様の側から指し示してくる道、私たちの平面に垂直に働きかける力です。その神さまの側から指し示してくる道に心を向けてみよというのがイエス様の呼びかけです。本気で神様に向かって求める人になれ。そのイエス様の言葉を受けとめて、勇気をもってしつこく求め続けましょう。

 

 

       2016.2.7 西福岡教会説教要約   

 

       説教「あなたの敵を愛しなさい」

 

   マタイによる福音書5章43-45節

 

 

 

 

私は若い頃人間関係に苦しんだ時、イエスの「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に出会って、これは一体どういう意味なのだろうと戸惑いました。

愛せないからこそ敵なのであって愛することのできる存在なんて既に敵ではない。こんな矛盾した言葉を何故イエス・キリストは語られたのか、と本気で考え始めました。それは私にとって、聖書の言葉との切実な向い合いでした。

 

正しい私がいて、けしからん相手がいる、正しいはずの私はその人が憎くなり、やがて正しいはずの私はその人を殺したくなる。

でもよく考えてみると、殺したいと思う私は、正しいどころか、とんでもない悪人です。これは恐ろしい矛盾です。正しいと思う自分も実は、本当は狂っているということです。私たちの日々の生活の中でこういうことがよくおこります。正しいと考える自分を固定化し、そこに自分の判断基準をおいて相手を敵と考えた瞬間から、それによって自分が狂ってくる。相手を殺そうとまで考えるようになる。憎しみは殺人です。憎しみを持った人が、力や武器や権力を持つと、いとも簡単に相手を殺してしまいます。全ての戦争も正義の旗の下に行われます。これが人間の現実です。聖書はこれを「人間の罪」といっているのだと思います。

 

その人間の現実に向かってイエス・キリストは「あなたの敵を愛しなさい」と呼びかけています。

愛という関係以外の立場にたつと、人間は必ず狂ってくる。そのことをイエス・キリストは、「あなたの敵を愛しなさい」と言う言葉で示したのだと思います。

「あなたの敵を愛しなさい」という時に、私たちが使っている「愛」という言葉は聖書の原語のギリシャ語では「アガベー」です。動詞では「アガパオー」です。これは、神が人間に対して一方的に示される無償の慈しみから発している言葉です。古くから日本には愛するという言葉が無く、四百年前に聖書を伝えた宣教師が聖書を日本語に訳すときにアガパオーを「大切にする」と訳しました。山浦玄嗣さんというお医者さんは「イエスの言葉 ケセン語訳」という本を出して、ここを「敵(かたき)だってもどごまでも大事にし続げろ」と訳されています。

私達の人間関係は、愛(互いを大切にする)ということに立脚しなかったら必ず破綻してしまう。 人間関係をゆがめず、いきいきしたものにするのは、愛しかない。すなわち、人間関係には愛するという以外の関係では存在しないということだと思います。 

 

続く45節にこう書いてあります。『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである』。

天の父は、私たちが悪い者と考え、私たちが良い者と考え、私たちが正しいと考え、正しくない者と考える視点とはまるで違ったところから私たちを見ておられます。

今日読んだこの聖書の言葉は、私たちの考える「悪い者」「良い者」「正しい者」「正しくない者」という判断を打ち砕き、根本的な変革を私たちの中にひき起こします。天の父なる神様の存在がまずあって、そこからしか、そしてそこに向かってしか、私たちの確かな判断は起こり得ないし、人を活かす行動は始まり得ないということでしょう。

 

悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせて下さる神様の存在に目もくれず、自分の小さな考えに捕らわれて、自分の思いを先立てて突き進むと、人間は必ず狂ってしまう。そのような現実を顧みると、自分にとってこの世の最大の敵とは自分自身なのではないでしょうか。

昨年の6月17日、アメリカのサウス・カロライナ州チャールストンでおきた白人至上主義者による銃乱射事件で逮捕された容疑者が出廷した裁判所で、遺族一人一人がモニター越しに男に語りかけたという報道がありました。

「あなたは私から大切な人を奪いました。もう母と話し、抱きしめることもできません。でも私はあなたを赦します。」他の人は「私は自分がとても憤っていることを告白しますが、憎むことはありません。赦さねばなりません。あなたの魂の為に私は祈ります。」

 

隣人愛という言葉を、陳腐な使い古された死語にしてはいけないのです。「敵を愛しなさい」という言葉は、ここからしか、私たちの人間関係や社会や世界の希望は開けていかないという、新しい生命に向かう天よりの言葉です。

そのことが本当の意味で、人を人らしくすることなのです。

 

 

 

            2016.1.24 西福岡教会説教要約

 

        説教 「幸いなるかな」

 

 

         マタイによる福音書5章1-12節

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書4章の終わりの部分では、「おおぜいの群衆がイエスに従った」と記されています。イエスは、これらの群衆を見て山に登られたとあって、そのため、マタイによる福音書の5章から7章までが「山上の説教」と言われています。

イエスは9つの事柄を幸いとして語ります。心の貧しい人々は幸いだ。悲しむ人々は幸いだ。柔和な人々は幸いだ。義に飢え乾く人々は幸いだ。憐み深い人々は幸いだ。心の清い人々は幸いだ。平和を実現する人々は幸いだ。義の為に迫害される人々は幸いだ。自分(イエス)の言葉に聴き従うが故に迫害され悪口を浴びせかけられるあなたがたは幸いだ。

これらは、どれ一つをとっても、とても幸いとは受け止め難いことあるいは、自分にはとてもできないと思えることばかりです。そのような状況に置かれた人々や私たちの現実にイエスはじっと眼を注ぎ心を寄りそわされたのだと思います。

文語訳聖書(明治期より昭和中期ごろまでに、日本でもっとも普及した聖書)では、「幸いなるかな心の貧しき者」と、最初に「幸いなるかな」と書かれていますが、もともと聖書の原語であるギリシャ語では、この箇所はマカリオイ(幸いなるかな)という言葉が最初に書かれているのです。5章の3節から11節までの九つの呼びかけにおいて、全てがマカリオイ(幸いなるかな)という言葉で始まっています。

 

山上の説教で最初にイエスが語られたことは、私たちすべての人間に向かって「さいわいなるかな」と語られたということです。どんな絶望的な立場に置かれた人の中にも神様の「さいわいなるかな」ということがまず来ているということです。どんなに頑張っても抜け出せないような絶望の中にあると思い込んでしまったり、困難な状況に落ち込むとすぐに神様なんていないと考えたりする私たちですが、そんな私たちに対してまず、神様の「さいわいなるかな」という祝福が既に来ていると告げて下さっています。だから、神様の力がそこに働くのだと示されているのです。

詩篇の139篇の8節には、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」と記されています。陰府と思われるところにも神様がおられる。だから、どん底と思われるところに置かれた時にこそ、神様の「幸いなるかな」という祝福に出会うということが起こるのです。

 

イエスの言葉には、逆説的な内容が多く、ちょっと読むと矛盾する表現がありすぐには理解できない言葉がたくさんあります。でもその逆説的な表現をすこし我慢してじっと考えてみますと、私たちが思いもつかないような事柄が、とても重要な内容であることに触れられていることがあります。そしてそれが聖書の面白さ、大切さだということにしだいに気付かされていきます。

 

それは、聖書に記されている言葉は神様から与えられており「天に昇ろうと、陰府に下ろうと」そこにあるからです。そのことはわたしたち人間の側からは思いもつかないということを示しています。今まで幸いだと考えてきたことが災いであり、今まで嫌っていたことに幸いがある、ということは、私たち人間の目の向きや心の向きを変えることになります。ですから、人としての幸せな生き方は、私たちが求めている延長線上とは違うところにあると言っていいのではないでしょうか。

山上で呼びかけられた弟子とはイエスにより招かれた全ての人のことです。私たち一人一人がイエスによって神へと呼びかけられています。

クリスチャンとは「あなたの人生は祝福されている」というイエスの言葉を自分のこととして受け止め、イエスの言葉と行動に従って行きたいと願う人々のことです。

信じようと信じまいと、どんな人にもどんな絶望的な状態でもイエスが、神様の祝福が私たちに与えられていると宣言して下さっている。それが今日の聖書のメッセージです。その祝福をしっかりと受けとって生きて行きましょう。

祝福されていると信じる人間は、困難や艱難に出会っても、それに立ち向かう勇気が与えられます。