2015.11.22 西福岡教会説教要約


  「人のいのちは持ち物によらない」


        ルカによる福音書12章13節-21節


                西福岡教会 齊藤皓彦



先日パリで大惨事となったテロ事件があり、また新たな戦争がシリアを中心に広がろうとしています。殺し合いは憎しみを増幅するだけで決して何の解決も生みません。戦火の中の人々や夥しい難民が、命の存続の危機の中にあります。国内でも、持てる者と持たざる者の格差が広がり、持てる者は自分の命には価値があり、持たざる者は自分の命には意味が無いと思ってしまう雰囲気があります。

生きる意味や生きる根拠生きる理由などの、生きることの尊さについて語れなくなっている社会になっているように思えます。


私は九大の学生時代に、滝沢克己という一人の尊敬すべき先生に出会いました。その先生に導かれ、一つの大切な聖書の言葉に深く出会いました。その言葉とは、「人のいのちは持ち物によらない」という言葉です。これは口語訳聖書箇所ルカによる福音書12章15節の言葉です。「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。


  今日のルカによる福音書12章の16節~18節までのたとえ話は、ある人が楽しく生きて行くための財産や遺産の分配や秩序を求めてイエスに助けを頼んだという話です。

  それに対するイエスの言葉は「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」でした。


 「貪欲」「むさぼり」とは「取ってはならないもの、或いはとる必要の無いものまでも取りたいという欲望」です。これに「あらゆる」という言葉が添えられています。

財産だけでなくこの世のあらゆるものに貪りということは起こる。どんなによい物でも、美しいものでも、愛情というものでも、正義というものについても、取ってはならないものを取る、或いはとる必要の無いものを取って自分のものにしないと気が済まない、そういう「むさぼり」が人間をとりこにする。だから、「よく見てそして用心」しないといけないとイエスは言われているのだと思います。

  

そして、イエスは言われます、「人のいのちは持ち物によらない」と。

「持ち物」とは、お金や財産だけではなく、才能でもあり、美貌でもあり、地位でもあり、名誉でもあり、さらに、正義とか信念なども持ち物になります。

 人の生きるということは、そのような持ち物がある、何か素晴らしいものを持っているということには拠らない。持ち物がある、持っているということから人のいのちは始まるのではないとイエスは言われます。人の命の根拠は、我々の思いとはまったく別なところにあるということです。


 では、人間のいのちとは何によって支えられているのか、それを聖書ははっきり言い表しています

今日は旧約聖書の詩篇139篇を見ましょう。

139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。

14節以下は省略しますが、特に16節までの言葉を味わっていただきたいと思います。


聖書が一貫して私たちに告げているのは、わたしたちが生きる理由、死ぬ理由、生きる意味が、私たち人間の側にあるのではなく、神の側にあるのだということなのです。私が自分の生命や人生に意味づけをしたり、意味が無いとしたりするものではなく、私の命の根拠は与えられるものです。


「人のいのちは持ち物によらない」ということを真剣に考えていると、人のいのちの大切さと美しさが分ってきます。そして、私たちの生き方が変わってきます。

「ひとのいのちは持ちものによらない」。イエス・キリストのメッセージを深く受け取りましょう。一人一人のいのちはすべて神様に支えられています。

神様が与えて下さった命を精一杯使わせていただく歩みを今週も始めましょう。


2015.11.8  西福岡教会説教要約 


     「最も大切な戒め」


        マタイによる福音書22章34-40節


           西福岡教会 齊藤皓彦



「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


今日はバザーの日です。たくさんの物品が献品され、その数の多さに驚かされています。今日も皆さんと共に楽しみつつ実行できたらうれしいと思います

バザーをする意味は、教会の活動資金をつくることが目的の一つですが、共に働く中で、多くの地域の人々と出会う機会をつくる場でもあります。

多くの隣り人と出会い、この方々と支えあう関係をつくりだすことはとても重要です。このことと神様を愛することは同じように大切だと記されているのが、今日の聖句です。


今日は「岡山の山陽新聞」が後援する「こくさいこどもフォーラム岡山」高校生懸賞論文で最優秀賞を得たフィリピンからの高校生のビラン・アンドレさんの小論文を紹介したいと思います。(省略)


ビラン・アンドレ君の体験こそが愛の一つの姿であり、それこそが神様を愛する一つの姿だと思います。特に、論文の最後に示された詩を心に留めて、日々の生活をして行きたいと思います。

この詩は、河野進さんという、日本基督教団玉島教会の牧師であり、詩人であられた方の詩です。もう一度読みます。

不平の百日より感謝の一日を 

憎しみの百日より愛の一日を 

失望の百日より希望の一日を


 2015.10.25 西福岡教会説教要約      

 

「神のイメージ」    


   マタイによる福音書4章1-11節


                                           西福岡教会 齊藤皓彦

 

 

 イエスは宣教を始める前に、一つの重要な試練に遭われます。それが「悪魔の誘惑」と呼ばれている今日の聖書箇所です。私が聖書を読み始めて以来、いつも驚き、考えさせられている箇所の一つです。


荒野に導かれて、四十日四十夜の断食の後に、3つの誘惑が語られます。

第一は、「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら』、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とあります。


 誘惑するものとは、悪魔のことでしょう。悪魔はサタンとも言われますが、サタンとは「敵対者」という意味で、神に敵対するものということです。

 悪魔の働きとは、私たち人間の心の奥深く巣食う罪の働きです。

「覗いてみれば あるわ あるわ 心の中に 同じ顔をした 毒と薬」

という星野富弘さんの詩がありますが、全くその通りです。悪魔の問いは私自身の問いでもあります。


イエスに対して悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と問うのです。

神の子であるとはこんな事ができる者のことではないのか。神の子なら石をパンに変える事ができるはずだ。

そしてこれが、まさに、私たち人間の心の底に巣食っている神に対するイメージです。人間の現実の切実な要求を満たしてくれる存在こそが神だ、自分にとって生きるための欲望を満たす役に立つ存在こそが神だという発想が根強くしかも強烈に私の中に、そして人間の中にあります。「もし神の子であるなら」当たり前じゃないか、と私たちはその問いを支持します。


 それに対して、イエスは「人は」と答えられます。全く悪魔の問いに答えません。そこでは、直接の対話は成り立っていないのですが、大切な事柄が明らかにされます。

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えています。


 パンが必要ないなんて、イエスは言われません。ただ、「人は、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものだ」と「書いてある」と答えられるのです。


 「神の言葉」こそが重要だ。人間の生きる世界内部のすべての源が神の国、すなわち「神の口から出る一つ一つの言葉」なのです。「人は」そこに置かれ、そこで生かされている。そここそが人間の本当の生きる場だと言われるのです。

奇跡に頼らなくていい。ただの人間でよい。人のいのちはそれだけで十分に祝福されている。人間の立つべき場所は「神の口から出る一つ一つの言葉だ」。


イエスはその本当の人間の場にしっかりと立たれて、そこから動かれません。イエスはそんな場に立っておられるのです。だから、悪魔の問いに直接答えられません。徹底的に人間として生き、神の御旨に生きようとされるイエスの姿がここに示されています。


  第二の悪魔の試みは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び降りたらどうだ」です。この悪魔の問いも、自分の能力を飛躍させる超能力を持ちたいという私たちの願望です


 第三の悪魔の試みは、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」です。

これも私たちが日々心の底で願い、あこがれている金と地位と名誉と権力です。このような誘惑を前にして私たち人間はその誘惑に耐えきれるでしょうか。

 

これらの悪魔の誘いに対して、イエスは、聖書を引用して最後まで徹底的にぶれずに神の言葉に従い、神さまに、生と死の全体をゆだね尽くし、神を自分のために利用する誘惑を完全に退けたイエスがここにおられます。


神に全幅の信頼を寄せ、神の御旨に生きようとするのが「真の人間」の在り方だということ。そしてそこにイエスは自分の立ちどころを明らかにされたのです。イエスの宣教は、この神に従順な姿に徹底する中で始められ、そのような戦いの後に、神の国の宣教の働きへと歩みだされ、それを完成させられたのです。それが神の子の姿でした。


そのようにイエス様が生きられて、神様を示してくださったおかげで、私たちは本当の神様のイメージと真の人間のイメージを確かに持つ事ができ、神に従順に生きる道が開かれているのです。





 2015.9.27 西福岡教会説教要約      

 

「バプテスマのヨハネとイエス


  ヨハネによる福音書5章31節―39節


                                           西福岡教会 齊藤皓彦

 

 

 今日は、バプテスマのヨハネとイエスとの関係について考えてみます。


バプテスマのヨハネは、洗礼を自分たちの入会の儀式としていたエッセネ派と呼ばれる集団の教師で、死海のほとりで厳しい禁欲と祈りの生活を送り、ひたすら自分たちの救い主の来るのを待っていた孤独な集団だったと言われています。

福音書においてバプテスマのヨハネはイエスの先駆者として記されています。「荒野で呼ばわるものの声がする、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」とあり、ヨハネは主の到来のための備えを呼びかける人として位置付けられています。従って預言者ヨハネは決して自分を人々の考えるようなメシアと言いませんでした。

イエスはヨハネをどう見ていたかというと、ご存知のようにとても大事な尊敬すべき人として、彼から洗礼を受けています。


そして、ヨハネとイエスは、その出会いを温めつつしばらくの時が経過しますが、ヨハネが捕らえられたと聞くと、イエスは自らのガリラヤの町へ退き、そこで宣教を開始されます。イエスの宣教開始の時の言葉は、「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。これは、ヨハネの宣教の言葉と同じです。ヨハネとイエスの出会いの不思議さと重要さを示していますが、二人の歩む道は異なるものになったのです。


今日の聖書のヨハネによる福音書5章の35節で、イエスは「ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたがたは暫くの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」と言っています。

ヨハネは自分で輝くともし火であったのです。人々が救いをもたらしてくれる聖者だと信じたヨハネは、罪・穢れを洗い落として、きれいな存在になることを重んじ、そこに力点を置いて生きた強く厳格で正しい人でした。荒れ野で修業して、この世的なものを洗い流し自分を正して救いを求めるのがヨハネのやり方でした。


一方、イエスは、ご自身について「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」と述べています。


イエスは神様を父と呼ばれています。イエスは「おとうちゃん」と神様を呼び、神様との結びつきがはっきりしていました。全てを赦して下さる神様がいつも先立たれ、共にいてくださる、その父から遣わされたのだということがはっきりしておられたのです。

神さまが自分を遣わし証して下さるという、絶対の信頼の中で生きておられたから、イエスには自分の力や努力で神様との結びつきを作り出し、それを証明される必要はなかったのです。


神様との結びつきがヨハネの生き方とは基本的に異なっているわけです。

人間の罪・穢れは自分の努力によって赦されるということが起こるのではない。すでに罪や穢れは神様によって赦され、その神様が共に歩んで下さる中で人は生きるのだ――そんなイエスの基本的なあり方がヨハネには分っていなかったのです。神と共にあるあり方がヨハネとイエスの違いだったのだと思います。


徹底的に一人の人として神様の御旨に従い、神様と同じ場所で一緒に生きようとされたのがイエスでした。

「父よ」と呼ぶ本当の神様との結びつきが初めにあり、救いが先に来ている。だから「アーメン」「その通りです」と受け止めることが先に来る。そこで初めて罪というものがどんなものかわかるようになる。順番が基本的に違うのです。


「蝮の子らよ」と叫んだヨハネからは、人間のだらしなさと社会に迫る緊迫した怒りがビンビンと伝わってきます。でも、イエスは、暖かな微笑みに満ちていたのではないかと思いませんか。


ヨハネの果たした働きに思いを馳せつつ、しかしヨハネのように自らの努力のみによって人間の罪の赦しが起こるのではないことを心に刻みましょう。そして、いつも神さまにすべてをゆだねて自由に生きられたイエス様の笑顔を思い起こしつつ日々を歩んでいきましょう。その時に、本当に大切なものが見えてくるのではないでしょうか。

今週も笑って、微笑んで元気に生きて行きましょう。





 2015.8.30 西福岡教会説教要約      

 

「インマヌエル~神はわれわれと共におられる」


マタイによる福音書 第1章21節~23節


                                           西福岡教会 齊藤皓彦

 

 

 驚くとは、思いもしない、まるで非常識な事柄だと思っていたことが、実は自分自身の方が常識にとらわれていた結果であり、自分の考えが打ち砕かれて、自分の常識が、深くゆすぶられて壊される出来事です。カール・バルトというドイツの神学者は、「打ち砕かれたことの無い人には、神様の言われることが理解できない」と、何度も語っています。



聖書を読んでいて、イエス様のなさった奇跡など、理解不可能なおかしな記事に出会ったとき、これは皆さんと聖書との出会いにとって得難いチャンスです。そんな機会に出会えたら、ぜひくだらないことだと切り捨てずに、考え抜いてください。おかしいと思う記事にこだわり続ける中から、自分のおかしさに気付かされ、自分の視点が変えられ、打ち砕かれ、神様との出会いが始まっていきます。



今日の聖書テキストは一般的に「処女降誕」と呼ばれ理解不可能と切り捨てられそうな箇所ですが、今日はここにこだわりましょう。

この部分の中心の言葉はとても短い言葉です。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

イエスはインマヌエルを示す方だと言い表しています。



私が学生の時に出会った滝沢克己先生が、口癖のように仰っていた言葉があります。「天に支えられていない地はない」。

人間がいる場所というものは、どんな人でも、どんな時でも、どんな場所でも、そこは神様がおられるところだ。それは、私たちが考えたから、私たちが信じたからそうなったのではなく、そうことは事実としてあるんだよというのです。

私たちは普通そういうふうには考えないですね。日常生きていて、「どうしてこういう目に遭わねばならないんだろう。」、「なんで?」ということは何度もあります。そして、困窮すると、「神様はいない」と考えたり、「駄目だ、生きている価値がない」と絶望したりします。反対に、幸運に見舞われたり、成功したりすると、「神様はおられる。神さまありがとう」と言ったり、自分は偉いんだと天狗になったりします。でもそこが思い違い、錯覚なのです。そこが打ち砕だれなければ本当のことはわからない、神様のことは解らないということです。



インマヌエルの福音、神われらと共にいますという福音とは、「どんな人も、もう絶望しなくていいし、する必要もない。どんなに状況が悪くても、その状況の中で人として十分に生きれる。神さまが共にいらっしゃるということは今あることだ。」ということです。

イエス様が、私たちの人生の座には揺らぐことなく、充実した人生がいつでも始まる場があることを示していて下さる方として生まれてくださったからです。



イザヤ書の46章3-4節に慰めに満ちた言葉として、こう記されています。

「あなたたちは生まれたときから負われ胎を出たときから担われてきた。

同じように、わたしはあなたの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」



打ち砕かれて、ここから新しく日々の歩みを始めることができる一人一人にならせて頂きましょう。

アーメン。






        2015.8.16 西福岡教会説教要約 

 

     「キリストは私たちの平和」

 

          エフェソの信徒への手紙第2章14-22節

 


 

                      西福岡教会 齊藤皓彦

 

 

 エフェソの信徒への手紙2章の14節には、二つのもの、敵意、隔ての壁という言葉があります。この二つのものとは、私たち人間社会の中で対立するものを指しています。二つに分けているものが敵意です。その敵意が互いに殺し合いを起こさせています。

自分は特別な人間だ、自分たちの国は特別な国だ、自分の方が正しいという思いが対立や差別を生み出し、敵意を作り出し、憎しみと報復の連鎖が殺し合いを続けさせてきました。



そのような対立と殺し合いしか無いように見える私たちの世の現実に対して聖書はどのように語るのでしょうか。

ローマ人への手紙12章19節で次のように記しています。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。 

イスラム国の人質となって捕えられ、殺害された後藤健二さんは日本基督教団の教会員でした。後藤さんはネットで「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」と語っておられました。



それでは聖書の語る平和とはどのようなものでしょうか。 

エフェソの信徒への手紙14節には「キリストは私たちの平和です」とあり、14節から16節において語られている「キリストの平和」には3つの大切な内容が述べられています。

第一は、敵意という隔ての中垣が取り除かれたこと、第二に、対立する者や事柄がイエス・キリストにおいて、一人の新しい人に作り上げられるということ。そして第三にそれがなされたのは、キリストの十字架を通して実現されたということです。平和は、イエス・キリストにあって、二つのものを一人の「新しい人へ」つくりかえることによって生み出されるものであり、それが平和を生み出す根源なのです。



私たちは、対立する二つのものを、あれかこれかの選択をして一方を絶対化する中で、敵意を作り出してきました。しかし、イエス・キリストは、あっちかこっちかの二者択一をすることではなく、新しい人として生きる道を示されたのです。新しい人へと作り変えられることによって、新しい生き方を示され、私たちを新しい生き方へと促しておられます。



大江健三郎さんは、今から12年前に若い人に向けて『「新しい人」の方へ』という随筆集を出版されました。

「広島ノート」以来、永年にわたって核兵器の脅威を訴え、平和運動の先頭に立ってこられた大江さんが、平和を作り出すイエス・キリストの中に、「新しい人」を見たのです。そして人間がこれから生き延びて行くには、

敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になってください。「新しい人」をめざしてください。「新しい人」になるほかないのです。

と呼び掛けられています。



なぜイエスは十字架にかかられたのか、私達もしっかりと聖書から聴いて行きましょう。キリストこそが私たちの平和なのです。二つのものを一つの「新しい人」へと作り変えられるキリストこそが神と人との平和を実現する力です。「新しい人へ」と作り変えられる中から、人と人との和解を作り出し、国と国との平和を実現する根拠となられたのです。



私達も、「復讐は神に任せる。」そこから始め、キリストに倣って「新い人へ」と自らを変えていきましょう。                 


 

 

2015年7月26日西福岡教会説教要約

 

「切れること、繋がること」

 

      マタイによる福音書第1章1-18節


 

 

                  西福岡教会 齊藤皓彦

 

 

今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの系図ということが述べられた後に、人の名がずらずらと書いてあります。一見退屈に思えますが、面白い三つのことが表現されています。マタイさんにとってこの最初の部分はとても重要なメッセージなのです。



第一は、登場人物たちのことです。神にそむいて偶像礼拝等の反逆を重ねる悪い王様とされている人が7名もいて人間の生々しい欲得の現実を生きた人々の事実を隠すことなく記しています。第二は、名前があげられている四人の女性が、イスラエルの伝統から言うと、最も忌むべき不義の女性たちや異邦人の女性であることです。



このような人々をわざとあげて系図を書いたマタイの意図は、罪にまみれ、神への反逆と不義にあふれた人間の只中から、イエスさまは生まれられたということをマタイは表したかったのでしょう。



第三は、イエスは聖霊によってみごもりマリアから生まれたとあります。つまり「イエス・キリストの系図」と書いてあるのに、よく読むと、イエスの父ではない、ヨセフの系図が書き連ねてあるのです。これはどういうことでしょう?

マタイさんはマタイによる福音書の最初のところで、イエス・キリストとは自分にとって一体どんな存在だったのかを語ろうとしています。マタイはイエスの言葉と行動とに出会ってとても感動して、どうしてもこの方のことを後世に伝えなくてはならない。このイエスは神の子キリストなのだ。ということを伝えたくてこの福音書を書き残し、冒頭でこのイエスをどういう風に紹介しようかと考えた結果の最大の表現だったと思うのです。



イエスは確かに人間の子として生まれた。けれどもその行動と言葉は人間の中からは決して出てくるものではない、そういうことを示してくれた神の子だ。イエス・キリストは私たち人間と繋がっているけれど、どこかで切れている。切れているのだけど、どこかで繋がっている。神の子とは、そうとしか表現できないような存在なのだ―と。



人間関係は、血縁や人間の思いによって成り立っていると私たちは考えます。しかし、本当には人間関係は、人間の思いとは関係のない、神様によって支えられているとしか言いようのないものによって支えられています。「切れて繋がる」。これは言葉としては一見矛盾するようですが、人間にとって真実なのだと思います。人間関係は私たちの思いもつかないところで支えられ、結びあわされているのです。

このことをマタイは、イエス様の生き様の中に発見したのでしょう。人間のあり方というのは、お互いにどこかで繋がっていなければならない。だけど同時に切れてなければならない。

「切れて繋がる」べき人間関係を指し示す存在が、救い主イエス・キリストなのだ、と言いたかったのだと思います。マタイは、人間のつながりの根源という大切なことを伝えようとしているのです。



 こういう聖書の面白さに触れて、人間についてイエス様は何を語っているのかに気がついたら、私たちの聖書の読み方が変わってきます。そして、人間関係についての考え方が変わって来ます。親子関係の根本的あり方が変わって来ます。イエス様が私たちに語っているのは、そんな言葉です。これはクリスチャンに対してだけでなく、すべての人間に対して語られている言葉です。それをしっかり聴いていきましょう。