201218日   西福岡教会説教    中川憲次



題:   「神の家族」



聖書箇所: マルコによる福音書 331節―35

 

 イエス様のご家族については、あまり多くのことが聖書に記されていません。父ヨセフはイエス様が十二歳の時に一緒に宮詣に行ったという話を最後に、聖書には登場しません。おそらくイエス様がお若い時期になくなられたのではないでしょうか。イエス様はマリアの長男でしたが、後に弟や妹たちが生まれたようです。イエス様は三十歳頃までそのようなご家族と一緒にガリラヤのナザレで暮らしておられたのでしょう。寡婦となったマリアが働きに出たという話はありません.当時の女性は、幼い頃は両親に養われ、結婚すると夫に養われ、老いては子に養われたのでしょう。また寡婦になったら、長男に養われたのでしょう。イエス様が、ヨセフ亡き後のマリアと弟や妹の生活を、一家の中心になって支えられたということは、想像に難くありません。ところが、その一家の大黒柱だったイエス様がその後、家をお出になったのです。きっとイエス様はアリアに何も言わずに突然家を出られたのではないかと思います。これは、私の経験に基づく判断です。というのは、私も家を出たかったときがあったからです。9歳のときに父が亡くなり、寡婦となった母を助けて、私は新聞配達などをはじめました。妹はまだ2歳でした。その後、母はがんばって

私を高校まで行かせてくれました。新聞屋に住み込んで、私の高校生活は始まりました。高校卒業が近付いた頃、私は無性に家を出たくなりました。それで母に、雑役夫という形でも貨物船か何かに乗り込みたいので、家を出ることをゆるして欲しいと言ったことがありました。たしか、泣いて反対されたことを覚えています。泣く母を、なおも放り捨てて家出するほど、私は船乗りになりたいのではなかったのでしょう。それで、その後も、ずっと母と一緒に暮らしつづけました。結婚してからも、同居し続けました。だから、イエス様が母マリアに、「私はこれから神の国を宣べ伝えるために家を出たいと思いますが、どうでしょうか」と相談なさったとしたら、きっと泣いてとめられていたと思うのです。イエス様は、ある日、突然家出されたのではないでしょうか。

 イエス様が家を出られた後のマリアの一家はどうなったのでしょうか。そのことが、先程お読みいただいた箇所の少し前に書いてあります。

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」

 イエス様が家を出られた後のご家族は、何とか生活を営んでおられたようです。イエス様についての「あの男は気が変になっている」という噂を聞いて「取り押さえに来」元気があったことから、それはわかります。

 さてマリアや弟妹がイエス様を取り押さえに来た場面は、31節以下に明かです。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。さて、ある人がイエス様のところに来て、「母上と兄弟姉妹方が外であなたを探しておられます」と告げました。すると、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」とお答えになり、さらにご自分の周りにいる人々をご覧になって、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われます。「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」とは、何と強烈な言葉でしょうか。

 この聖書の箇所で、古来より多くの説教者が説教してまいりました。そして注解書を書いても来ました。ギリシャ語を使うキリスト教世界の四世紀の教会の指導者であったヨハンネス・クリュソストモスという説教者はこの箇所の注解の中で次のように書いています。

 「サタンが人を捕らえる投網は虚栄心である。家族とは虚栄心である」

 家族であるイエス様が気が変になっているという噂を聞いた家族達は、家の恥だとばかりに「取り押さえに来た」のでしょう。もしイエス様についてのよい噂を聞いたのなら、取り押さえに来るどころか、偉くなったイエス様に一目でも会いたいものだということになったところでしょう。確かに「家族とは虚栄心」です。私たちは、自慢の息子のことは、人に聞かれなくても「東京大学で学んでますの」と吹聴したくなるし、反対に息子が犯罪を侵したりしたら、息子などいなかったかのように口にしません。イエス様の家族も、私たちの家族も、同じことでしょう。 ここで、もう一度イエス様の強烈なお言葉に戻りましょう。

「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」

 イエス様は心を通わせあうことができるなら、血のつながりのない赤の他人同士が、まことの家族なのだと仰ったのでしょう。イエス様の思いを理解できないとき、それがたとえイエスさまと血の繋がった家族であっても、決して真の家族ではないということでしょう。

 このイエス様の言葉を裏付けるのは、例えば5000人の供食の物語です。マタイによる福音書1414節以下21節までです。

「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ,彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。『ここは寂しい所ですし,時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。』。しかし、イエスは言われた、「彼らが出かけて行く必要はありません.あなたがたで,あの人たちに何か食べる物を上げなさい。』。しかし,弟子たちはイエスに言った.『ここには,パンが5つと魚が2匹よりほかありません。』。すると、イエスは言われた。『それを,ここに持って来なさい。』。そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいあった。食べた者は,女と子どもを除いて,男5千人ほどであった。弟子達が「群衆を解散させてください.そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください」と言ったのは、当然の態度です。イエス様と一緒に食事をしてよいのは、家族のようにイエス様と生活を共にしている自分たちだけだと弟子たちは考えていたようです。それに、イエス様と弟子たちだけが食べるにしても足りそうにない、パン五つと、魚が2匹しかなかったのです。しかしイエス様は、衝撃的な言葉を口にされます。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」。

 イエス様にとって、群集はみんな、イエス様のまことの家族でした。まさに、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と仰ったのは、いいかげんな言葉ではなかったのです。私には、この場に居合わせた群集の喜びがわかる気がします。というのは、これもあることを思い出すからです。

 私は子どもの頃、たまには友達の家に遊びに行くことがありました。妹は妹で、他所の家に遊びに行っていました。私たちのような子どもに遊びにこられる家こそいい迷惑だったろうと今になって思います。母は遅くまで働いていましたから、夕食は私たちだけで食べねばなりません。それで、家に帰っても母がいないのがわかっていますから、どうしても友達の家に遅くまでいようとすることになります。しかし、友達の家でも遅くても午後7時ごろには夕食を食べることになります。当然のことながら、友達のお母さんは仰います。「憲ちゃん、もう帰りや。うちは晩御飯食べるねん」。それでも、ぐずぐずしていると、「はよ帰り。お母さん待ってはるやろ」などといわれます。待っていないのはわかっていても、もう帰るしかありません。そのようなことで、私は友達の家に遊びに行ったとき、夕暮れ時が本当に怖かったです。帰らねばならないからです。もちろん私は、いくら友達と仲良く遊んでいても、その家の家族団欒には入れてもらえないのです。私が、「ほんならさいなら。どうもありがとう」と言って、その家の玄関を出た後、その家の中から楽しそうな笑い声などが聞こえたときは、「親のそろっている家はええなあ」としみじみ思ったものです。

妹も多分どこかの家で、そのように思っていたことでしょう。

 だから、私は群衆に帰れと言わず、たった「パン五つと、魚が2匹」しかないのに、一緒に食べようと仰ったイエス様の言葉のありがたさを思うのです。

 ここに、単なる血の繋がっただけの家族を超えて行く交わりがあります。この交わりについて、聖書は「神の家族」という言い方をいたします。たとえばエペソ人への手紙219節には次のようにあります。

「あなたがたは、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」

 皆さん、教会はこのような神の家族です。この教会は、そのことを毎週の礼拝後の愛餐会で実践しておられます。共にご飯を食べるとき赤の他人同士の私たちは神の家族としての一家団欒を楽しんでいるのです。「パン五つと、魚が2匹」をイエス様に増やしていただく心で一緒にご飯を食べているのです。ここに私たちお互いの母がおり、兄弟姉妹がいるのです。もしこの場に、始めてこられた方がおられましたら、どうか1日も早く洗礼を受けてこの神の家族の一員になられますように、心からお勧め致します。なぜなら、あの寂しかった私を、この神の家族が救ってくれたからです。

 

祈り

神様、私たちがイエス様のみ心を私たち自身の心として、お互いにますます、まことの神の家族となることができますように、私たちを導いてください。この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。

 

 

 

 

2012年1月8日 西福岡教会 礼拝説教 中川憲次 説教題「神の家族」.pdf
PDFファイル 115.2 KB