2017年1月22日 説教

 

「偉い人」とは

 

マタイによる福音書第20章20-28節

 

 

 皆さんは現在の小、中学生がどんな夢を持っているかご存じでしょうか。

 男の子の夢の一位は何だと思われますか。それは「サッカー選手」です。第二位は「科学者」。第三位は二つあり、警察官と医者です。以下は、5位が、電車の運転手とゲームクリエーターです。7位は同率で、マンガ家、パイロット、テレビ・アニメのキャラクター、大工さん、建築家、宇宙飛行士です。

 

では女の子の夢の第一位は何でしょう。それはパテシエです。第二位はお医者さん。第三位は幼稚園、保育園の先生です。第四位は、デザイナー、第五位はスポーツ選手、第六位はアイドル歌手と建築家です。建築家は少し意外ですね。第八位はケーキ屋さん、女優、小学校の先生です。

 

では今度は、逆に親が子供になって欲しい職業のランキングはどうなっているでしょうか。第一位は、「子供がなりたいと思っている、憧れの仕事に就いてほしい」と言うことです。昔から変わらぬ親心の本音だと思われます。

第二位は薬剤師さん。第三位は医者です。以下は、公務員、学校の先生、看護師など比較的安定して将来が約束される職業を望む親が多い結果でした。

 

子供達がそういう職業にあこがれるのは、そういう職業の人を偉いと思うからでしょう。皆さんにとって偉いとはどういうイメージでしょうか?

人の上に立つ人、リーダーとして優れている人、人の役に立つ人などいろんなイメージがあります。

 

 今日の聖書箇所は、ヤコブとその兄弟のヨハネの母が、二人の息子達と一緒にイエスの所に来て願います。イエスは「何が望みか」と問います。すると彼女は、「王座におつきになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と頼むのです。

 

 この会話では、母親の願いと、二人の息子達兄弟の願いが重なって一つになっています。そしてそれは、イエスの弟子集団の中で高い地位に就きたいという願いが、正直にイエスに向けて差し出された願いでした。

 

するとイエスは答えて「あなた方は、自分が何を願っているのか分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことが出来るか」と逆に問い返されます。二人は、「出来ます」と答えます。

 

「自分が何を願っているのか分かっていない」。とは、指導的位置に座ることが人間として偉いことでは無いとイエスが言われたのです。

 

「あなた方は私が飲もうとしている杯を飲むことが出来るか」と問われます。この二人の弟子達には、また母にも、想像も出来ない、人間としての悲しみと苦しみの杯がイエスを待っていることを語られたのですが、それはこの三人には知るべくもありませんでした。

 

ところが、それを聞いた他の10人の弟子達が腹を立てます。イエスは弟子達すべてを呼び寄せて、「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」といわれたのです。

 

そしてイエス自身も、「自分は人に仕えられるためではなく、人に仕えるために来たのだ」、「偉い人とは人に仕える人だ」と宣言されたのです。私達が普通に考える「偉い人」とはまるで違うイメージを示されました。

 

私は40年前に鳥取大学に就職しました。大学のすぐ近くには、日本基督教団の湖山教会がありました。鳥取滞在中はその湖山教会に通いました。そこで私は生涯忘れることの出来ない、3人の「偉い人」に出会いました。

それは3人の婦人でした。教会設立の種をまき、水を与え成長させた方々でした。既に3人ともに神様の元に召されましたが、今日はその中でも特に私達夫婦にキリスト者としての生き方を教えて頂いた上山さんを紹介します。

 

その婦人は一人で大きな家に住まわれ、そこに学生を住まわせ、また多くの学生のお世話をされました。何人かの若い人の学資を支援するという「足長おじさん・おばさん」のような働きもされました。私達も後に、その家に一緒に住まわせていただきました。

 

上山さんは、人の輪をゆったりと作られる、静かな行動力と優しさにあふれた柔和な婦人でした。口癖のように「みんなもっと教会のために時間を使わんといけん」とおっしゃっていた彼女の、教会の成長に仕えるそのあり方は凄まじいものがありました。毎週自宅を開放して婦人会のお仕事会をして、毎回皆に昼食を提供してくださって、楽しく魅力ある教会へと人々を集めました。

 

私達は大きな家に一緒に住まわせて頂くとともに、家主である上山さんの許しを得て、自由にその家を集会所として使用することが出来ました。それが鳥取大学学生YMCAの活性化の原動力となりました。

 

上山さんは、鳥取で、婦人の友の「友の会」を始められ、その中心メンバーとして体を動かしてよく働かれ、また学生に食事を提供してくださり、そうでないときはいつも一人静かに聖書や、婦人の友を黙々と読んでおられました。

 

上山さんの口癖は「私はアホですケー、何にも分かりゃしませんケー」と謙遜されていました。そんな雰囲気の中で多くの人や若者を支えられました。

文字通り、若者に仕え、人に仕え、神様と教会に仕える生き方でした。いつも笑って人を受け入れ、人々に仕える「偉い人」でした。この人を通して、多くの人が育ち、教会が育てられ、そして私達夫婦も育てられました。

 

私の身近なもう一人の「偉い人」を紹介したいと思います。

私の連れ合いの実の姉は、もう亡くなりましたが、四十代後半に若年性アルツハイマーを発症しました。30年前です。次第に進行する病を気遣って、友人達が彼女を支えるために20年前「第二宅老所よりあい」を設立しました。

その「第二宅老所よりあい」の所長さんが、村瀬孝生さんです。村瀬さんは、西日本新聞にその「第二宅老所よりあい」の活動を連載されました。そして10年前に出版されたのが「ぼけてもいいよ」です。その他に、「おしっこの放物線」や「看取りケアの作法」など、感動的な本を出版されています。

 

村瀬さんは、ぼけ老人であろうと、その行動には必ず理由がある。だからその行動を決して邪魔してはならない。それが徹底しているのです。

家に帰りたいという認知症の人と共に、外に出て歩きます。でも行き先は分かりません。でも、その人の思いのままに共に歩きます。何時間でもその方の納得するまで歩きます。やがてその方は疲れて宅老所に帰ることを納得します。

 

認知症は、決してその人の思いを否定してはならないと言うことですが、それが徹底しています。でもそうしているうちに、落ち着いて改善してくるのです。村瀬さんは、徹底して認知症の老人に仕える中でその症状を受け入れて元気つけているのです。私の義理の姉は、発症後3年の余命と言われていましたが、その後28年も生きることができました。

 

徹底的に患者に「仕える者」として接する、村瀬さんの「宅老所よりあい」のあり方は、真に「偉い人」と言えるのではないかと思っています。

 

村瀬さんは「末期の人の身体が発する無言の訴えに耳を澄ませば、必要な支援が見えてくる。認知症の人の看取りは悲惨ではない」と訴えておられます。

 

「偉い人になりたいなら、人に仕える人になりなさい」とイエスはおっしゃいます。偉い人とは、人に仕えることによって、本当に豊かな人間関係を生み出し、人間関係の拡がりをもたらす人なのだと思います。

 

聖書に戻って、ヤコブとヨハネの母はその後どのような生き方をしたのでしょう。聖書にはそれについての記事はありませんが、マタイによる福音書27章55-56節にこの母が登場するのです。その箇所を読んでみます。

「またそこでは、大勢の婦人達が遠くから見守っていた。この婦人達は、ガリラヤからイエスに従って世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」

 

このゼベダイの子らの母は、イエスから「あなた方は、自分何を語っているか、分かっていない」として、イエスから、「私の飲もうとしている杯を飲むことが出来るのか」という厳しい問いかけを受けた人物です。

 

この母は、自分が息子達のためだと考えて発言したとはいえ、本当に人間として大切な事柄が見えていなかったことに深く反省し、イエスの言葉によって人間を見る視点が変えられたのではないでしょうか。

 

イエスの十字架刑の前で、その身分的栄達を願った、二人の息子達はちりぢりに逃げ去ったしまったのに、遠くからイエスの最後の姿をじっと見つめ続けていたのです。今や、危険な状況の中で命をかけても、イエスの言葉を心に刻み、それを自分の生き方に変えた姿がそこにありました。

 

先ほどのマタイの58頁の55節には、ガリラヤからイエスに従って「世話をした」とありますが、この世話をすると言う言葉は、「仕える」という意味でもあるのです。

 

私達も、人間の偉さは、他者に仕える中から生み出され、成長するものであることを心に刻んで生きていきたいと祈ります。

    2017年1月1日 説教

    

    「お金と信仰」

 

 

 マタイによる福音書第19章16-30節

 

 

 

 この何年か、特に経済的な安定性が優先され、そのほかの問題は陰に隠れて、人権や平和という、人類が長年の努力によって獲得した価値観が崩れ去るかのような風潮が世界を覆っています。

 

 世の中全体が、経済優先だけで動いていても、誰もがそれをおかしいと思いつつ、流れを変えようとする動きに加わろうとしません。 お金さえ安定してに入れば、ほかのことは日本人が目をつむっているように思われます。

 

  聖書の記事に従って聴いていきたいと思います。

 

 まず、話の発端は、金持ちの青年がイエスを目がけて接近し、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことすればいいのでしょう」と質問するのです。

 

 イエスは戸惑われたかもしれません。この青年は、折に触れてイエスの言動を見聞きして知り、イエスこそ自分の心の底にくすぶる問題を解決してくれる人だと考えたのでしょう。その青年の質問は「永遠の命を得る」にはどうすればいいかという内容でした。「人生の中で本当に確かな拠り所をどうやれば手に入れることができるのですか」と聴いたのです。

 

 今日この礼拝に集われた皆さんも、生きていく上で本当に大切なものは何だろうという問いを、もっています。教会はそのようなことを聴く場所でもあるからです。

 

 この金持ちの青年には、多くの財産があるにもかかわらず、様々な悩みがあったのでしょう。健康や人間関係や仕事上の不安であったかもしれませんし、あるいはもっと抽象的に生きる意味や目的の問題であったかもしれません。彼はそれを解決するために、様々な宗教的な修業をしてみたのかもしれません。

 その悩みの根源は、あるいは夏目漱石の「こころ」の主題のように財産を持っているが故の、相続争いや、権利争いだったのかもしれません。

 

 理由は解りませんが、この青年はイエスの言動の中に解決があると感じ取ってイエスに尋ねたのです。「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

 

 私たちも悩み事を抱えた時、善い人を求めて右往左往します。誰かの所に行けば何か道が拓けると思います。この青年もイエスをそういうアドバイスができる善い人と考えたのでしょう。 でもイエスは、神様に目を向けさせます。

 

 神様みを中心に据えなさいという注意を、金持ちの青年に与えた後、「もし命を得たいと思うなら、掟(戒め)を守りなさい。」とイエスは言われます。

 

 戒め(掟)とはモーセの十戒のことです。イエスは十戒のうちの、「人に関する」6つの戒めを答えられたのです。

 

 青年は「イエス様、あなたの言われることは皆守っているのに、自分には永遠の命に入れるという確信を持つことができない。一体何がかけているのでしょうか。」と尋ねたのです。

 

 ここからが、イエスと青年の真剣勝負の場です。青年は掟を守れば救われるとの、ユダヤ教の教えに従って、十戒や、多種多様な律法の定めを守ろうとして来たのに、本当の充実感がない。このイエスならその命の充足感に出会える場所を、自分に教え示してくれるに違いないとイエスに迫ったのです。

 

 これに対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それから私に従いなさい。」と答えられました。

 

それでも私たちはお金や財産にしがみついてしまいます。お金や財産が私の命の価値や意味を決めるように思ってしまいます。

 

イエスは私たちがしがみついて、それなしには生きられないように思っているものから手を離してみなさい、そして、それを周りで苦しんでいる人に、その人が必要とするものを与えなさい、と勧めます。

実はそれは金持ちの青年が全部守っていますと言った、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」という掟の中身のはずです。完全になりたいならその掟を本気で実行してごらんと言うのがこのイエスの言葉になります。でも実行するということはとても難しいことです。

 

 マタイによる福音書6章24節の山上の説教の中で、「神と富」という短い説教があります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」

 

 ここでは、富や金は神に匹敵する力を持っていることが指摘されています。現実の金の力は、神様の言葉に対抗するくらい強い力があるのです。だから、私たちはどうしてもお金の力にまけてお金から自由になれません。

 

今日の聖書箇所でも、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と書かれています。

 

イエスは、本当の命にとってなくてならぬものは何かをこの青年に語りかけたのですが、現実の富や金が、イエスの生き方、言葉や行動に深く出会うことを妨げてしまいました。イエスはこの青年に、も少し語りかけたかったのに違いありませんでしたが、この青年はイエスの前から去ってしまったのです。

 

 イエスは、この青年との出会いを通して、「金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られました。

 

 この言葉を聞いた弟子たちは、「非常に驚いた」と強い衝撃の言葉を吐いています。そして、「それでは誰が救われるのだろうか」と言いいます。そういう思いは私たち自身、私自身の中にもあります。

 

 そんな弟子たちを、イエスは「見つめて」、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」といわれています。

人間にはできないということ、すなわち財産やお金などを私たち人間が手放せないことをイエスはわかっておられるわけです。ということは、この聖書の箇所は「できないからダメ」とか、「できないとダメ」とか言ってるわけではないのだと考えられます。

でも青年は「できないから」と悲しみながら去っていきました。

 

去って行ってはいけなかったのだと思います。去らないで、イエスの言葉に引っかかっていることが大事なのだと思います。

 

 真理は人間の持ち物にはなりません。それは神様のものです。それと全く同じことですが、財産や金など人間の持ち物は、人間を本当に支えてくれるものとはなりません。

 

 本当になくてならないものはただ一つ。熱心に語り続けてくださるイエスの言葉に、引っかかり躓きつつ、イエスの生き方に導かれつつ歩むことです。

 

アッシジのフランチェスコの祈りと呼ばれている有名な祈りがあります。新しい年をこの祈りに導かれて歩み始めましょう。

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますよう

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光をもたらすことができますように、

助け、導いてください。

 

神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。

 

自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。